麦
一九一九年八月中旬。
ロシア、タンボフ県。
モスクワからずっと南東へ下った、黒い土と麦畑ばかりの土地だった。
タンボフの町から遠くない農村地帯。
地図にもほとんど名前の出ないオルロフカ村に、ステパン・ルキンは住んでいた。
家は三十軒ほど。
教会が一つ。
共同井戸が二つ。
春になれば泥だらけになり、夏になれば道が埃で白くなる。
革命が起きたと言われても、ステパンにはよく分からなかった。
春になれば畑を起こす。
種を蒔く。
雨が降らなければ空を見る。
馬が病めば、自分で腹を撫でる。
秋になれば麦を刈る。
冬になれば、納屋の穀物があと何日もつか数える。
皇帝がいたころもそうだった。
皇帝がいなくなっても、そうだった。
だから革命というものは、モスクワやペトログラードに住んでいる人間がするものなのだと、ステパンは思っていた。
少なくとも、自分の畑に兵隊が来るまでは。
昼すぎだった。
畑の向こうから馬車が三台やってきた。
先頭の馬車には、赤い布が結びつけてある。
ステパンは鎌を止めた。
隣で麦を刈っていた弟のパーヴェルも顔を上げた。
「赤だ」
「見れば分かる」
「村の評議会に行くんじゃないか」
革命のあと、村にできた新しい評議会だった。
誰が土地を使うか。
誰が兵隊に行くか。
誰がどれだけ麦を国に渡すか。
最近は何でも、そこで決める。
ステパンはまた麦を刈り始めた。
「兄貴、見に行かないのか」
「行かん」
「国が変わってるんだぞ」
「俺が見に行ったら麦が増えるのか」
パーヴェルは笑った。
「地主の畑だって俺たちのものになった」
それを言われると、ステパンは黙った。
革命のおかげで、去年まで地主が持っていた土地の一部を村で分けた。
ステパンの畑も、以前より四ヘクタールほど広くなった。
それだけはありがたかった。
だが畑は畑だった。
誰の旗が立とうが、雨が降らなければ麦は枯れる。
ステパンにとって、それが世界で一番確かな法則だった。
夕方。
家に帰ると、庭に知らない男が二人いた。
一人は小銃を持っていた。
もう一人は帳面を持っていた。
妻のダーリヤが戸口に立っている。
八歳の息子コーリャがその後ろからこちらを見ていた。
四歳のアンナは母親のスカートを握っている。
ステパンは鎌を納屋の壁に立てかけた。
「何だ」
帳面の男が答えた。
「麦だ」
「麦がどうした」
「軍と町に送る」
「うちも食う」
「必要な分は残す」
「誰が必要な分を決める」
男は帳面を開いた。
「ルキン家。大人三人、子供二人。馬一頭。牛一頭」
ステパンの顔から表情が消えた。
「誰が教えた」
「村の評議会だ」
家の中からパーヴェルが出てきた。
「兄貴」
「お前か」
「違う」
「じゃあ誰だ」
「村中、調べてるんだよ」
帳面の男が納屋を指した。
「余っている麦は国に出してもらう」
ステパンは男を見た。
「余ってる?」
男は答えなかった。
二人は納屋へ入った。
麦袋を数えた。
種にする麦も数えた。
冬に食べる分も数えた。
牛に食わせる分まで見た。
最後に帳面の男が言った。
「十二プード(約二百キロ)だ」
「駄目だ」
「決まりだ」
「十二プード持っていかれたら、春に蒔く麦がなくなる」
「軍が食えなければ白軍に負ける」
「俺の子供が食えなければ?」
男は黙った。
ステパンは一歩近づいた。
「俺の子供が食えなければ、誰に勝ったことになる」
小銃を持った男が銃床を握り直した。
パーヴェルが小さく言った。
「兄貴」
ダーリヤも言った。
「ステパン」
彼は黙った。
十二プード。
冬を越す分、春に蒔く種、子供たちの食べる分、牛の餌。
頭の中で何度計算しても足りなかった。
「半分にしろ」
「駄目だ」
「百五十」
「二百だ」
「春になったらどうする」
帳面の男は答えた。
「そのころには戦争も終わっている」
ステパンは初めて笑った。
「誰がそう言った」
男は答えなかった。
その夜、麦が荷車に積まれた。
アンナが袋を一つずつ指さした。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
途中で分からなくなり、また最初から数えた。
荷車が出ていったあと、ダーリヤが言った。
「冬、どうするの」
ステパンは空になった納屋を見た。
「分からん」
結婚して九年。
ダーリヤが夫からその言葉を聞いたのは、初めてだった。
屋根が漏れれば直せた。
馬が病めば休ませた。
畑が乾けば雨を待った。
食料が減れば食事を減らした。
今度は違う。
相手は天気ではなかった。
人間だった。
そして数日後。
南の街道から、今度は騎兵がやってきた。
赤い布はなかった。
馬上の男たちは、白軍側のドン・コサック騎兵だった。
南ロシアのドン地方から来た騎馬兵たちだった。
一人が村へ入るなり言った。
「馬を出せ」
ステパンは黙って、自分の馬を見た。
麦の次は、馬だった。




