第9話 新たに刻まれた神の文字
第9話 新たに刻まれた神の文字
静寂が戻っていた。
あれほど激しく暴れていた四本腕の魔物は、黒い灰となって崩れ落ち、床に散らばっている。
アルトは荒い息を吐きながら、その場に立っていた。
「……終わった……?」
「終わった」
隣に立つレグナスが淡々と答える。
「本当に?」
「たぶん」
「また『たぶん』!?」
アルトが叫んだ瞬間――。
遺跡の奥で、淡い光が灯った。
青白い光だった。
「……今度は何?」
アルトは警戒しながら、光の方を見る。
そこには、これまで見たことのない文字が刻まれていた。
壁いっぱいに広がる巨大なルーン。
それはまるで、生き物のようにゆっくりと明滅している。
「レグナス……あれは?」
レグナスの表情が変わった。
「……知らぬ」
「知らないの!?」
「千年前には存在しなかった」
「じゃあ僕より詳しいみたいな顔しないでよ!」
「していない」
「してたよ!」
レグナスは無視して、ルーンへ近づいた。
そして、しばらく眺める。
「これは……」
「読める?」
「いや」
その答えに、アルトは少し驚いた。
今まで、レグナスは古代のルーンについて何でも知っているように見えていた。
そのレグナスでさえ読めない。
ならば――。
「僕には……読めるかもしれない」
アルトが一歩前へ出る。
文字を見つめる。
不思議だった。
初めて見るはずなのに、その意味だけは自然と頭の中へ流れ込んでくる。
そして――。
「これは……」
アルトの口から、言葉がこぼれた。
「ᛟ(オセル)――『故郷』を意味するルーン……」
その瞬間。
遺跡全体が震えた。
ゴゴゴゴゴゴ――。
「うわっ!」
床が揺れ、壁から砂埃が落ちてくる。
レグナスが周囲を見回した。
「アルト。触れるな」
「え?」
「今までとは違う」
レグナスの声には、明らかな警戒があった。
「このルーンは、お前の記憶に反応している」
「僕の……記憶に?」
「ああ」
アルトは壁の文字を見る。
すると――。
頭の奥が、ズキンと痛んだ。
「っ……!」
視界が白くなる。
そして、一瞬だけ――。
懐かしい景色が見えた。
小さな家。
木の机。
窓から差し込む夕日。
誰かが笑っている。
温かい声。
優しい手。
「……母さん?」
アルトは思わず呟いた。
だが、その姿は見えない。
顔だけが、黒く塗りつぶされたように消えている。
アルトは息を呑んだ。
「……また、母さんの記憶……」
胸が締めつけられる。
もう失った。
母の顔は、思い出せない。
それなのに。
このルーンは、まるで失われた記憶を呼び戻そうとしている。
アルトが手を伸ばす。
「待て!」
レグナスが腕を掴んだ。
「触れるなと言ったはずだ」
「でも……」
「そのルーンは、お前に何かを返そうとしている」
「返す?」
「あるいは――奪うために」
アルトは手を止めた。
「……奪う?」
レグナスは静かにルーンを見つめる。
「神の文字は、力を与えるだけではない」
「……」
「記憶を代償にするルーンがある一方で、記憶そのものを利用するルーンも存在する」
アルトの顔が青ざめた。
「じゃあ……これに触れたら、また記憶を失うの?」
「わからぬ」
「わからないの!?」
「だから警戒している」
「その『わからぬ』、最近すごく怖いんだけど……」
アルトは苦笑した。
けれど、その目は笑っていなかった。
怖い。
本当は、もうルーンなんて使いたくない。
母の顔を失った。
もう一つ、何を失ったのかさえわからない記憶がある。
さらに、戦いの中でまた何かを失った。
これ以上、自分の中から何かが消えるのが怖かった。
それでも――。
壁に刻まれた「故郷」の文字から、目を離せない。
「……僕は、故郷を忘れたくない」
アルトは呟いた。
「村も……父さんも……みんなのことも」
「ならば、使うな」
レグナスが言った。
「え?」
「お前が本当に大切だと思うなら、これ以上ルーンに頼るな」
「……」
「力を得る代わりに、自分自身を失う。それがルーン魔術だ」
アルトは拳を握った。
そのときだった。
「……アルト」
どこからか、声が聞こえた。
少女の声。
アルトは振り返る。
「今……何か聞こえた?」
レグナスも周囲を見回す。
「何も聞こえぬ」
しかし――。
アルトには聞こえていた。
確かに。
あの少女の声だった。
『アルト……』
「君は……誰なんだ?」
アルトは暗闇へ向かって尋ねる。
『忘れないで……』
「……何を?」
返事はない。
ただ、目の前のルーンが強く輝いた。
そして壁に、新たな文字が浮かび上がる。
アルトはそれを読む。
「……『失われた記憶の中に、真実は眠る』……?」
レグナスの目が細くなる。
「その言葉を、どこで読んだ?」
「今、ここに出てきたんだよ」
「……そうか」
レグナスはしばらく黙った。
やがて、小さく呟く。
「やはり……お前の記憶は、偶然失われているのではない」
「え?」
「誰かが、お前の過去を隠している」
アルトの心臓が、大きく跳ねた。
「……誰かが?」
「ああ」
レグナスはアルトを見る。
「そして、その少女も――」
その瞬間。
遺跡のさらに奥から、轟音が響いた。
ドンッ!!
「うわっ!」
アルトが飛び上がる。
「今度は何!?」
「わからぬ」
「もうその答え禁止!」
レグナスが珍しく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ならば、見に行くか」
「嫌な予感しかしないんだけど……」
「安心しろ」
「何を?」
「死ぬときは一緒だ」
「全然安心できない!!」
二人は顔を見合わせる。
そして――。
遺跡の奥へと続く暗い通路を進み始めた。
アルトは最後に一度だけ振り返った。
壁に刻まれた、ᛟ(オセル)。
――『故郷』。
その文字は、まるでアルトを見送るように静かに輝いていた。
そして誰も知らない。
その奥に眠っているものが――。
アルトが失った記憶と、あの少女の正体を知る存在であることを。
少年の過去を巡る物語は、今、静かに動き始めていた。




