第38話 消された名前を取り戻す
第38話 消された名前を取り戻す
黒きᚦの胸が開いた。
その奥に広がっていたのは、底の見えない闇ではなかった。
無数の光。
無数の文字。
無数の――名前。
「……こんなに」
アルトは息を呑んだ。
そこには、千年前に消えた人々の名前があった。
老人。
子ども。
父親。
母親。
兵士。
魔術師。
商人。
神官。
誰にも知られなくなった名前たち。
誰にも呼ばれなくなった名前たち。
世界から切り離されたことで、記憶の中から消えた名前たち。
それでも――。
完全には消えていなかった。
「まだ……生きてる」
アルトが呟く。
少女が頷く。
「名前が残っているなら、まだ繋がれる」
「でも、どうやって?」
レグナスが黒きᚦを見る。
「力ずくでは無理だ」
「じゃあ……」
黒いローブの男が答えた。
「呼ぶんだ」
「呼ぶ?」
「名前を」
男は胸を押さえた。
「千年前、誰にも呼ばれなくなったから消えた」
「なら――」
アルトは目を見開く。
「もう一度、誰かが呼べばいい」
少女が微笑む。
「そういうこと」
黒きᚦが大きく震えた。
『無駄だ』
無数の黒い線が、名前へ伸びる。
『この者たちは、すでに世界から切り離された』
『誰も覚えていない』
『誰も呼べない』
「それでも!」
アルトは手を伸ばした。
「僕が呼ぶ!」
最初の名前が光る。
アルトには知らない名前だった。
けれど、その名前に触れた瞬間――。
記憶が流れ込んでくる。
小さな家。
笑い声。
誰かと食べた夕食。
畑。
祭り。
子どもの泣き声。
誰かを抱きしめた記憶。
「……この人にも」
アルトの目に涙が浮かぶ。
「帰る場所があった」
少女が手を重ねる。
「なら、繋ぎましょう」
アルトは名前を呼んだ。
「――エリオ」
光が輝いた。
黒きᚦの中から、一つの名前が飛び出す。
――パァン。
闇の外へ。
そして次の名前。
「――マルナ」
光が飛び出す。
「――ゼド」
「――リナ」
「――ガイル」
一つ。
また一つ。
名前が黒きᚦから解放されていく。
『やめろ!』
黒きᚦが咆哮する。
『名前を呼ぶな!』
「どうして?」
アルトが問う。
『名を失えば、人は消える』
「だったら――」
アルトは叫んだ。
「名前を取り戻せばいい!」
――ドォォォン!!
黒きᚦの身体に亀裂が広がった。
しかし。
同時にアルトの身体にも激痛が走った。
「ぐっ……!」
鼻から血が流れる。
レグナスが叫ぶ。
「アルト!」
「大丈夫……!」
「無理をするな」
「無理じゃない」
アルトは名前の光を見つめる。
「この人たちを忘れるほうが……嫌だ」
少女がアルトの隣に立つ。
「なら、私も呼ぶ」
少女が一つの名前を呼ぶ。
その名前に、アルトは驚いた。
「……知ってるの?」
「千年前、私はこの人たちを見ていたから」
少女の声が震える。
「忘れたくなかった」
少女は次々と名前を呼ぶ。
そのたびに、消えた人々の光が戻っていく。
黒いローブの男も立ち上がる。
「俺もやる」
胸の黒い力が暴れ出す。
「ぐ……!」
「大丈夫なの?」
少女が心配する。
「これくらい……千年前から慣れてる」
男は苦笑した。
「それに、俺も約束した」
「何を?」
「アステルを止めること」
アルトが男を見る。
「……それだけ?」
「いや」
男は静かに笑う。
「アステルを、一人にしないことだ」
アルトの目が見開かれた。
千年前。
少年のアルトが黒きᚦを刻もうとしたとき。
この男は止めようとした。
だが、止められなかった。
だから――。
千年後の今まで。
黒きᚦの力を抱えながら、生きてきた。
「……ありがとう」
アルトが言う。
男は顔を背ける。
「礼はまだ早い」
その瞬間。
黒きᚦの中心から、巨大な黒い刃が伸びた。
「危ない!」
少女が叫ぶ。
レグナスが魔法を放つ。
しかし。
黒い刃は魔法との繋がりを切り裂いた。
「くっ!」
レグナスの魔法が消える。
刃はそのままアルトへ向かう。
「アルト!」
少女が飛び込む。
だがアルトは手を伸ばした。
「違う」
アルトの手に「繋ぐ」の文字が輝く。
「切らない」
黒い刃に触れる。
「繋ぐ!」
――パァァァッ!!
黒い刃に光が走る。
刃は消えなかった。
代わりに――。
その先にあった黒きᚦとの繋がりが見えた。
「……これだ」
アルトが呟く。
「黒きᚦは、全部を直接動かしてるんじゃない」
レグナスが理解する。
「繋がりを使っているのか」
「うん」
黒きᚦは強大だ。
だが、無限ではない。
名前。
記憶。
存在。
過去。
人と人。
世界と人。
それぞれの繋がりを切ることでしか、力を使えない。
「だったら――」
アルトは笑った。
「全部、繋ぎ直す!」
アルトの背後に、巨大な光の輪が現れる。
その中心に――。
エルナ神都。
リーネ村。
そして二つを結ぶ地下道。
さらに。
そこにいるすべての人々の名前。
光が一本ずつ伸びる。
「ゴウ!」
銀色の光。
「ダン!」
赤い火花。
「ユイ!」
弾む光。
「サナ!」
柔らかな光。
「ロウ!」
大地の光。
「ミナ!」
小さな光。
「カイル!」
暖かな光。
リーネ村の命が、エルナ神都へ繋がる。
そして。
千年前に消えた名前たちも、その光へ繋がっていく。
「これが――」
アルトは息を呑む。
「本当の『繋ぐ』なんだ」
黒きᚦが激しく震える。
『やめろ!』
亀裂が広がる。
『私を消すつもりか!』
「違う」
アルトは首を振る。
「君も、消さない」
『……何?』
「君だって、千年前からずっと何かと繋がっていた」
アルトは黒きᚦを見る。
「だから僕は、君をただ消すんじゃない」
「君が切ってしまったものを――全部、元に戻す」
黒きᚦが沈黙した。
少女が静かに言う。
「それが、千年前にあなたが本当に望んでいたこと」
アルトは頷いた。
「うん」
黒きローブの男が、胸の黒い光を解放する。
「なら、最後だ」
黒い光がアルトへ流れ込む。
「俺の『力』を返す」
「危険じゃないの!?」
「危険だ」
男は笑う。
「だが、三人で始めたことだ」
アルトはその力を受け取る。
記憶。
力。
繋がり。
三つの断片が集まる。
しかし――。
黒きᚦは完全には消えなかった。
むしろ。
その中央から、一人の少女の姿が浮かび上がった。
「……え?」
アルトが目を見開く。
少女も驚いている。
そこに浮かんでいたのは――。
千年前の少女。
今、アルトの隣にいる少女と同じ姿。
だが。
その胸には、黒きᚦの「繋がり」の断片が刻まれていた。
少女は呟く。
「……私の中にあるものが」
黒きᚦが告げる。
『まだ一つ、繋がりが残っている』
アルトが少女を見る。
「君……」
少女は自分の胸に手を当てる。
「そうだった」
そして。
初めて、決意したような目でアルトを見る。
「私の名前を――」
少女の声が震える。
「あなたに伝えなくちゃ」
アルトは息を呑んだ。
千年間、伏せられていた少女の名前。
それが――。
ついに明かされようとしていた。




