第37話 千年前の名、アステル
第37話 千年前の名、アステル
神殿の最深部。
巨大な黒きᚦの胸に、一つの光が浮かんでいた。
そこには、黒い文字に覆われた名前がある。
アルトは、その光を見つめていた。
「……これが」
少女が静かに答える。
「あなたが千年前に持っていた名前よ」
アルトの胸が大きく鳴った。
ずっと探していた。
自分が何者だったのか。
なぜ黒きᚦを使ったのか。
なぜ少女は、自分の記憶を封じたのか。
なぜ千年もの未来へ、自分を送ったのか。
そのすべてが、この名前へ繋がっている。
「……取り戻す」
アルトは一歩、前へ進んだ。
すると――。
――ゴォォォン!!
神殿全体が震えた。
『思い出せ』
黒きᚦが低く響く。
『お前が何者だったのか』
『何をしたのか』
『何を奪ったのか』
黒い霧がアルトを包み込む。
次の瞬間。
目の前に千年前の光景が現れた。
エルナ神都。
まだ消えていなかった街。
人々の笑い声。
市場の喧騒。
神殿の鐘。
そして――。
一人の少年。
黒髪の少年が、少女と並んで歩いている。
「……僕だ」
アルトは呟いた。
少年の姿は、今のアルトとよく似ていた。
だが、その瞳には今とは違う強い意志が宿っている。
『アステル』
少女が少年を呼ぶ。
アルトの身体が震えた。
「……!」
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥に、忘れていた記憶が流れ込んできた。
『アステル』
『うん』
『また一人で神殿へ行くの?』
『大丈夫だよ』
少年は笑っていた。
『僕は神の文字を読めるから』
『でも――』
『心配しなくていい』
少年――アステルは少女の手を握る。
『僕がみんなを守る』
アルトは目を閉じた。
「……そうだった」
その名前。
確かに自分だった。
千年前の自分。
アステル・レイン。
しかし。
黒きᚦが再び声を響かせる。
『お前はアステルだ』
『千年前の罪人だ』
『神都を消した者だ』
『ならば、今の名など捨てろ』
黒い線がアルトへ伸びる。
「……断る」
アルトは顔を上げた。
『何?』
「僕はアステルだった」
光が強くなる。
「でも――」
アルトは自分の胸へ手を当てた。
「僕は今、アルト・レインとして生きている」
黒きᚦが震える。
「千年前の記憶も」
父の声が聞こえる。
『アルト』
「リーネ村で過ごした時間も」
ゴウの声。
『アルト、頑張れよ』
ダンの声。
『お前ならやれる』
ユイの笑い声。
『アルトー!』
サナの声。
『気をつけてね』
ロウの声。
『畑が待ってるぞ』
ミナの声。
『……忘れないで』
そして――。
カイルの声。
『帰ってこい、アルト』
アルトは涙を拭った。
「全部、僕の人生だ」
少女が静かに微笑む。
「ええ」
「アステルも僕」
「ええ」
「アルトも僕」
「……ええ」
少女の目から涙が落ちる。
「やっと……」
少女は震える声で言った。
「やっと、あなた自身の名前を取り戻したのね」
アルトは少女を見る。
「呼んで」
「……え?」
「千年前の僕の名前」
少女は一瞬、目を伏せる。
そして――。
「……アステル」
その一言。
千年ぶりに呼ばれた名前。
アルトの胸の奥で、何かが繋がった。
「……うん」
アルトは笑った。
「その名前を、ずっと覚えていてくれたんだね」
「忘れられるわけないでしょう」
少女は涙を流しながら笑った。
「千年前からずっと、あなたはあなたよ」
その瞬間。
――パァァァァッ!!
アルトの命の光が輝いた。
そこに刻まれていた名前が二つに分かれる。
アステル・レイン
そして。
アルト・レイン
二つの名前が一本の光で繋がった。
レグナスが静かに呟く。
「過去と現在が、繋がったか」
アルトは頷いた。
「うん」
そして黒きᚦを見る。
「僕はアステルだった」
黒きᚦの身体に亀裂が走る。
「僕はアルトだ」
さらに亀裂。
「どちらか一つになる必要なんてない」
アルトの右手に、「繋ぐ」の神の文字が浮かび上がる。
「過去を消さない」
「罪も消さない」
「記憶も消さない」
神殿中の文字が輝く。
「全部、僕のものとして受け止める!」
――ドォォォン!!
黒きᚦの胸が大きく割れた。
『愚かな……!』
黒きᚦが叫ぶ。
『罪を背負えば、お前は苦しむぞ!』
「分かってる!」
アルトは叫び返す。
「苦しむよ!」
拳を握る。
「後悔もする!」
そして、まっすぐ黒きᚦを見る。
「それでも――」
アルトの命の光が輝く。
「僕は生きる!」
黒きᚦが沈黙する。
「千年前の僕ができなかったことを、今の僕がやる」
少女がアルトの隣に立つ。
レグナスも杖を構える。
さらに――。
黒いローブの男が、胸を押さえながら立ち上がった。
「……アステル」
アルトが振り返る。
男は小さく笑った。
「その名を聞くのは、千年ぶりだな」
「……覚えてたんだ」
「忘れるものか」
男の胸の黒い光が激しく揺れる。
力の断片が、彼の身体を蝕んでいる。
「だが、まだ終わっていない」
男は黒きᚦを睨む。
「お前が名前を取り戻したことで、三つの断片が繋がり始めた」
「三つが……?」
少女が答える。
「記憶」
アルト。
「力」
黒いローブの男。
「繋がり」
少女。
「三つが揃えば――」
神殿の奥で、巨大な黒い心臓のようなものが脈打った。
――ドクン。
――ドクン。
黒きᚦの本体が、さらに巨大化する。
『そうだ』
黒きᚦが嗤う。
『三つが揃えば、私は完全になる』
「……!」
アルトは息を呑む。
男が叫ぶ。
「違う!」
男の胸から黒い光が飛び出した。
「三つを繋げるんじゃない!」
アルトが振り返る。
「じゃあ、どうするんだ!」
「分けるんだ!」
男は苦しみながら叫ぶ。
「千年前と同じように!」
少女が気づく。
「……そういうこと」
「何?」
「黒きᚦは、三つの断片が繋がることで完全な形になる」
少女はアルトを見る。
「でも――」
最後の神の文字が輝く。
「あなたの『繋ぐ』は、黒きᚦを一つにするための力じゃない」
「……」
「それぞれの存在を、そのまま繋ぐための力」
アルトは目を見開いた。
「つまり……」
男が笑う。
「俺たち三人なら、今度こそ黒きᚦを終わらせられる」
黒きᚦが咆哮する。
『させるものか!!』
無数の黒い線が三人へ襲いかかる。
「来る!」
レグナスが防御魔法を展開する。
「アルト!」
少女が叫ぶ。
「うん!」
アルトは右手を掲げた。
「アステル・レインとしての記憶!」
光が燃える。
「アルト・レインとしての現在!」
さらに光が強くなる。
「そして――」
少女と黒いローブの男を見る。
「三人の約束!」
三つの光が交差した。
――パァァァァァッ!!
神殿を白い光が包む。
黒きᚦの巨大な身体に、無数の亀裂が走る。
『やめろ……!』
初めて。
黒きᚦの声に恐怖が混じった。
アルトは前へ進む。
「終わらせる」
その手に、最後の神の文字。
「でも――」
アルトは静かに告げた。
「消して終わらせるんじゃない」
「千年前に失ったものを――」
神都の鐘が鳴る。
リーネ村の命の光が輝く。
ゴウ。
ダン。
ユイ。
サナ。
ロウ。
ミナ。
カイル。
そして。
アステル。
アルト。
すべての名前が光となって繋がっていく。
「取り戻すんだ!」
黒きᚦが絶叫した。
そして――。
その巨大な胸が、完全に開いた。
その奥にあったのは。
黒い闇ではなかった。
千年前に消された、エルナ神都のすべての名前だった。
アルトは息を呑む。
「……まだ、こんなに残ってたのか」
少女が頷く。
「ええ」
涙を浮かべながら。
「だから――」
「うん」
アルトは手を伸ばした。
「今度こそ、迎えに行こう」
千年前に消えた名前たちへ。
アルトは、一歩踏み出した。




