第33話 黒きᚦに選ばれた者
第33話 黒きᚦに選ばれた者
神殿の最奥へ続く階段を、アルトたちは駆け下りていた。
背後から、何度も地鳴りが響く。
リーネ村が、まだ戦っている。
いや――。
村そのものが、黒きᚦに飲み込まれようとしている。
「急がないと……!」
アルトは息を切らしながら走った。
そのときだった。
階段の壁に刻まれていたルーンが、一斉に光った。
ᛗ。
ᛋ。
ᛟ。
そして「繋ぐ」。
四つの文字が一本の光となり、アルトの胸へ吸い込まれていく。
「――っ!」
頭の中に、知らない記憶が流れ込んだ。
千年前。
エルナ神都の神殿。
若いアルト。
少女。
そして、黒いローブの男。
三人が並んで立っている。
『これで準備は終わった』
黒いローブの男が言った。
『黒きᚦは三つに分ける』
『本当に、それで大丈夫なの?』
少女が尋ねる。
『分からない』
男は答えた。
『だが、他に方法がない』
若いアルトが黒きᚦを見つめていた。
『僕が一つを持つ』
『危険すぎる』
『分かってる』
少女がアルトの腕を掴む。
『あなたが黒きᚦに選ばれた理由は、それだけじゃない』
『……?』
『あなたには――』
そこで映像が途切れた。
「……何?」
アルトは立ち止まった。
「僕が黒きᚦに選ばれた理由……?」
少女が黙っている。
「知ってるんだね」
「……ええ」
「教えて」
少女は目を伏せた。
「あなたには、黒きᚦを『読む』力があったから」
「読む?」
「普通の人には、あの文字はただの黒い傷にしか見えない」
少女はアルトの手を見る。
「でもあなたには、意味が見えた」
「だから……僕だけが使えた?」
「それだけじゃない」
少女は静かに続けた。
「あなたは、神の文字と自分自身を繋げられる」
アルトは息を呑んだ。
「……僕の『繋ぐ』力」
「そう」
レグナスが口を開いた。
「黒きᚦは本来、世界との繋がりを断つ文字だ」
「でも僕は……」
「逆だ」
レグナスが言った。
「お前は、断たれたものを繋げられる」
アルトは自分の胸に手を当てた。
だから黒きᚦは、アルトを器として選んだ。
だから千年前、アルトは黒きᚦを使えた。
そして――。
黒きᚦは、アルトを完全には支配できなかった。
「……僕は、黒きᚦのための器だったんじゃない」
アルトが呟く。
「黒きᚦを止めるために、僕自身が選ばれたんだ」
少女が頷いた。
「そうよ」
その瞬間。
階段の奥から声が響いた。
『違う』
三人が振り向く。
黒い影が立っていた。
赤い目。
黒い身体。
そして胸には――黒きᚦ。
『お前は選ばれたのではない』
影が笑う。
『お前自身が、私を選んだ』
「……僕が?」
『そうだ』
黒い影が近づいてくる。
『千年前、お前は力を求めた』
「違う!」
少女が叫ぶ。
「アルトはそんなこと――」
『ならば思い出せ』
影がアルトを見る。
『なぜ、お前は黒きᚦを使った?』
アルトの頭に激痛が走った。
「――っ!」
視界が暗くなる。
燃える神都。
倒れていく人々。
少女の叫び。
そして――。
若いアルトが、黒きᚦを握っている。
『僕が全部消す』
「……!」
『この街も』
『この魔物も』
『この苦しみも』
『全部――』
アルトは震えた。
「……違う」
記憶の中の自分が叫んでいる。
『僕が消えればいい!』
黒きᚦが膨れ上がる。
少女が泣いている。
『アルト、やめて!』
『僕一人が犠牲になれば、みんな助かる!』
「……僕は」
アルトは膝をついた。
「僕は、自分一人を犠牲にしようとしたんだ」
レグナスが静かに言う。
「そうだろう」
「でも……」
アルトは顔を上げた。
「それだけじゃない」
黒い影を見る。
「僕は、みんなを救おうとした」
『それが間違いだった』
「かもしれない」
アルトは立ち上がる。
「でも、今の僕が決めることだ」
最後の神の文字が輝いた。
「僕は、もう一人で全部を背負わない」
少女が目を見開く。
「アルト……」
「君も」
アルトは少女を見る。
「レグナスも」
そして黒いローブの男のいる方向を見る。
「……あの人も」
アルトは拳を握った。
「誰か一人が犠牲になるんじゃない」
「繋ぐ」の文字が強く輝く。
「みんなで、未来を選ぶ」
黒い影が初めて動きを止めた。
『……その考え』
低い声。
『千年前のお前にはなかった』
「だからこそ――」
アルトは前へ進む。
「今の僕が、変える」
その瞬間。
神殿の最奥にあった扉が開いた。
そこには巨大な祭壇があった。
祭壇の中央には、一冊の古びた本。
表紙には、アルトの知らない文字が刻まれている。
少女が息を呑む。
「……あれは」
「知ってるの?」
「ええ」
少女の声が震える。
「千年前、あなたの本当の名前が刻まれた本よ」
アルトはゆっくりと祭壇へ歩く。
「ここに……僕の本当の名前が?」
「そう」
だが、祭壇の前まで来た瞬間。
黒い炎が立ち上がった。
レグナスが杖を構える。
「触れるな!」
「え?」
「罠だ!」
黒い炎の中から、巨大な黒きᚦが現れる。
そしてその中心に――。
黒いローブの男の姿が浮かび上がった。
『アルト』
男の声だった。
「……あなた!」
『俺のことも、思い出せ』
男の姿が苦しそうに揺れる。
『俺の名を――』
そこで黒い炎が彼の姿を飲み込んだ。
「待って!」
アルトが手を伸ばす。
しかし届かない。
最後に聞こえたのは――。
『俺は、お前の――』
声が途切れる。
アルトは呆然と立ち尽くした。
少女が唇を噛む。
「……もう時間がない」
「どういうこと?」
「彼の中にある黒きᚦが、完全に目覚め始めている」
神殿全体が揺れる。
遠くで――。
リーネ村の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
しかし、その鐘の音は途中で途切れた。
アルトの顔から血の気が引く。
「……村が」
少女が頷く。
「黒きᚦが、村との繋がりを切った」
「そんな……!」
アルトは祭壇を見る。
そこには、千年前の自分の本当の名前が眠っている。
そして外には、消えようとしている故郷。
どちらを選ぶのか。
アルトは――。
「……どっちも救う」
レグナスが目を細める。
「できると思うのか?」
「分からない」
アルトは笑った。
「でも、もう一人でやるつもりはないから」
少女が隣に立つ。
「私もいる」
レグナスも杖を構える。
「私もだ」
「……ありがとう」
三人の足元に、三つの光が集まった。
ᛗ。
「繋ぐ」。
そして――。
まだ名前のない、最後の鍵。
神殿の最深部で。
千年前に封じられた記憶が、ついに開こうとしていた。
その先にあるのは――。
アルトの本当の名前。
そして、千年前の戦友が隠していた最後の真実だった。




