第3話 最初の代償
第3話 最初の代償
カツン。
カツン。
石造りの通路に、乾いた音が響いていた。
「……誰?」
アルトは振り返った。
誰もいない。
暗闇が、どこまでも続いているだけだった。
「気のせい……だよね」
そう呟いた瞬間――。
グルルルル……。
「……え?」
前方から、低い唸り声が聞こえた。
アルトの身体が硬直する。
暗闇の中に、二つの赤い光が浮かんだ。
ゆっくりと、それが近づいてくる。
「……嘘……」
姿が見えた。
巨大な狼だった。
普通の狼ではない。
馬ほどの大きさがあり、全身を黒い毛に覆われている。
鋭い牙。
長く伸びた爪。
そして胸元には――。
アルトには見覚えのある文字が刻まれていた。
「……ルーン……?」
狼の胸で、赤黒い光が明滅する。
その瞬間。
魔物が地面を蹴った。
「――っ!」
ドォン!!
凄まじい速度だった。
アルトは反射的に横へ飛び退く。
ズバッ!!
「うあっ!」
肩に鋭い痛みが走った。
爪が服を切り裂き、肩から血が流れる。
「痛っ……!」
魔物は止まらない。
振り向くと同時に、再びアルトへ飛びかかってきた。
「逃げないと……!」
アルトは走った。
しかし、魔物の足音がすぐ後ろまで迫ってくる。
ドン!
壁が爪で砕かれた。
「ひっ……!」
あと少し遅れていたら、自分の身体があの壁のように砕かれていた。
「なんで……こんなところに……!」
アルトには戦う力なんてない。
普通の魔法さえ満足に使えない。
炎も出せない。
風も起こせない。
なのに、こんな怪物をどうすればいい?
「……ルーンなら……」
脳裏に、さっきの文字が浮かぶ。
ᛉ(アルギズ)。
守護。
防御。
その力なら――。
「でも……」
アルトの足が止まった。
記憶を失う。
あの魔法を使えば、また何かを失う。
母の顔を思い出そうとする。
けれど、もう思い出せない。
「……嫌だ」
魔物が迫ってくる。
「もう……何も失いたくない……!」
しかし――。
グルァァァッ!!
魔物が跳んだ。
「――っ!」
アルトは両手を前に突き出した。
「ᛉ(アルギズ)――!」
青白い光が爆発する。
ドォォォン!!
アルトの目の前に巨大な結界が現れた。
魔物の爪が結界に叩きつけられる。
ガギィン!!
「……っ!」
結界が大きく揺れた。
魔物はさらに力を込める。
ギギギギ……。
亀裂が走った。
「そんな……!」
アルトの顔から血の気が引く。
このままでは破られる。
魔物が咆哮した。
ドガァン!!
結界が大きく砕けた。
「うわああっ!」
アルトは床を転がった。
魔物が再び迫ってくる。
その瞬間――。
右手が熱くなった。
「……え?」
指先から、赤い光が漏れる。
頭の中に、一つの文字が浮かんだ。
――ᚲ。
アルトには、その意味が分かった。
「……ケナズ……」
ᚲ(ケナズ)。
炎。
知識。
啓示。
それが、頭の中へ直接流れ込んでくる。
けれど――。
「これを使ったら……」
また記憶を失う。
怖い。
何を失うか分からない。
今度は母の顔だけでは済まないかもしれない。
「……嫌だ……」
魔物が口を大きく開いた。
鋭い牙が迫る。
「でも……!」
アルトは拳を握った。
「死にたくない……!」
そして――。
「守りたい……!」
右手を突き出す。
「――ᚲ(ケナズ)!」
瞬間。
世界が赤く染まった。
ゴォォォォォッ!!
巨大な炎がアルトの手から放たれた。
炎は一直線に魔物を包み込む。
グルァァァァァッ!!
魔物が苦しそうに叫ぶ。
黒い身体が炎の中でもがく。
しかし炎は消えない。
むしろ、さらに勢いを増していく。
「うあああああっ!」
アルト自身も叫んだ。
炎が遺跡の壁を照らす。
古代文字が赤く輝く。
やがて――。
魔物の身体が崩れ落ちた。
黒い灰となって、床へ落ちていく。
「……はぁ……はぁ……」
アルトはその場に膝をついた。
勝った。
自分が――あの怪物を倒した。
普通の魔法なら、絶対にできなかったことだ。
「……すごい……」
震える手を見る。
しかし。
喜ぶことはできなかった。
「…………」
頭の中に、また違和感がある。
何かが――消えている。
「……何?」
アルトは必死に記憶を探した。
家族。
村。
友達。
自分の名前。
幼い頃の記憶。
何度も思い出そうとする。
けれど――。
「……分からない」
何を失ったのかすら、分からない。
それが一番怖かった。
「僕……何を忘れたの?」
答えはない。
「大切なものだったら……?」
アルトの身体が震えた。
忘れたことにすら気づけない。
それはつまり――。
大切な記憶ほど、失った瞬間に「大切だった」ということさえ分からなくなる可能性がある。
「……怖い」
アルトは自分の胸を押さえた。
「僕は、あと何回……自分を失えばいい?」
その時。
暗闇の奥から、あの声が響いた。
『二つ目の文字を刻んだな』
「…………」
『ᚲ(ケナズ)――炎と啓示の文字』
アルトは顔を上げる。
「……僕は、何を失ったの?」
しばらく沈黙が続いた。
そして――。
『それを知る必要があるのか?』
「……え?」
『失った記憶を探すことはできる』
声が低く響く。
『だが、見つけられるとは限らない』
「…………」
『次は何を失う?』
アルトの顔が青ざめる。
声は楽しんでいるようにも聞こえた。
『父の声か』
『友の名前か』
『故郷の記憶か』
『それとも――』
そこで声が途切れる。
そして最後に。
『汝自身か』
「…………!」
アルトは唇を噛んだ。
神の文字。
それは確かに、強大な力を与えてくれる。
けれどその力は――。
自分の大切なものを、一つずつ奪っていく。
アルトは燃え尽きた魔物の灰を見つめた。
そして初めて理解した。
ルーン魔術とは、ただ強い魔法なのではない。
自分自身を代償にして、奇跡を起こす魔術なのだ。




