第2話 目覚めた神の文字
第2話 目覚めた神の文字
石造りの遺跡の奥。
アルトは、暗闇の中に立っていた。
先ほどまで聞こえていた、あの不気味な声は消えている。
静かだった。
あまりにも静かすぎる。
「……誰か、いるの?」
返事はない。
アルトは恐る恐る、一歩前へ進んだ。
すると――。
コツン。
靴先に何かが当たった。
「……石?」
足元を見る。
そこには、黒く変色した小さな石板が落ちていた。
だが、ただの石ではない。
その表面には、見たことのない文字が刻まれていた。
曲線と直線が組み合わさった、不思議な文字。
なのに――。
アルトには、それが読めた。
「……ᛉ……?」
口にした瞬間。
石板が青白く光った。
「うわっ!」
アルトは思わず後ずさる。
光は徐々に強くなり、石板に刻まれた文字が浮かび上がっていく。
そして、頭の中に知らない言葉が流れ込んできた。
――アルギズ。
――守護。
――防御。
「アルギズ……?」
アルトが呟く。
すると、暗闇の奥から声が響いた。
『ᛉ(アルギズ)――守護を司る神の文字』
「神の……文字?」
『刻め』
「……え?」
『その文字を、汝自身に刻め』
アルトは首を横に振った。
「待って。刻むって……どうやって?」
『願え』
「願う……?」
『守りたいものを思い浮かべよ』
アルトは黙った。
守りたいもの。
そんなもの、決まっている。
母。
村。
いつも自分を心配してくれる人たち。
けれど――。
「僕なんかに……守れるの?」
『刻め』
もう一度、声が響いた。
アルトは震える手を伸ばした。
そして、石板に刻まれた文字へ触れる。
「……僕は……」
指先が光に包まれる。
「守りたい」
その瞬間――。
ドンッ!!
遺跡全体が揺れた。
「うわああっ!」
床から光が走り、壁へ、天井へと広がっていく。
そしてアルトの足元に巨大な魔法陣が現れた。
その中心で――。
ᛉ(アルギズ)が輝く。
「アルギズ……!」
光が弾けた。
ドォォォン!!
アルトを中心に、巨大な半透明の壁が展開された。
まるで巨大な盾。
遺跡そのものを包み込むほどの強大な防御結界だった。
「……これが……僕の魔法?」
アルトは呆然と結界を見つめる。
普通の魔法なら、こんなものは絶対に作れない。
自分の魔力では、火を灯すことすらできなかった。
なのに。
今は――。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
しかし。
次の瞬間。
「……っ!」
頭に激痛が走った。
「な……に……これ……」
膝から力が抜ける。
ドクン。
心臓が大きく脈打つ。
頭の奥から、何かが引き抜かれていくような感覚。
「やめ……て……!」
アルトは頭を押さえた。
「何を……してるの……?」
声は答えなかった。
ただ、静かに告げる。
『代償だ』
「……代償?」
『神の文字は、力を与える』
声が響く。
『だが、力には対価が必要だ』
アルトの呼吸が止まった。
『ルーン魔術は、汝の魂を糧とする』
「魂……?」
『そして――』
一瞬の沈黙。
『一つのルーンにつき、一つの記憶を奪う』
「…………え?」
アルトは固まった。
「記憶……?」
『そうだ』
「嘘……だよね?」
『小さき力なら、小さき記憶を』
声が続く。
『大きな力を求めれば、大切な記憶を』
「……そんな……」
アルトは震えながら、自分の頭の中を探った。
何かがおかしい。
何かが――。
「…………母さん?」
その言葉を口にした瞬間だった。
胸の奥が、冷たくなった。
母の声は覚えている。
優しく自分の名前を呼ぶ声。
朝、起こしてくれる声。
食事を作ってくれることも覚えている。
笑っていたことも。
泣いていたことも。
抱きしめてもらった感触も覚えている。
なのに。
「……顔が……」
アルトは息を呑んだ。
「母さんの……顔……」
思い出せない。
必死に思い出そうとする。
目。
鼻。
口。
髪。
何度思い浮かべようとしても――。
そこだけが、真っ白だった。
「…………いや」
アルトの手が震え始める。
「嫌だ……」
頭の中にあるはずの大切なものが、ぽっかりと抜け落ちている。
「母さん……」
涙が頬を伝った。
「僕……母さんの顔……忘れた……」
声が震える。
「なんで……?」
返事はない。
ただ、あの声だけが冷たく響いた。
『それが、代償だ』
「……嫌だ……」
『力を使えば、記憶を失う』
「嫌だ……!」
『だが――』
声が低くなる。
『力を使わなければ、守れぬものを失う』
「…………」
アルトは何も言えなかった。
目の前には、巨大な守護の結界。
その力と引き換えに、自分は母の顔を失った。
もし、もっと強い力を使ったら?
父との思い出を失うかもしれない。
友達の名前を忘れるかもしれない。
村で過ごした日々を忘れるかもしれない。
そして――。
「……僕自身のことまで……」
アルトは自分の腕を抱いた。
もし全部の記憶を失ったら。
自分が誰なのかも。
どうして生きているのかも。
誰を大切にしていたのかも。
何も分からなくなる。
「そんなの……魔法なんかじゃない……」
アルトは涙を拭った。
「こんなの……怖すぎるよ……」
それでも。
目の前にあるルーンは、静かに輝いていた。
まるで、次の力を使う日を待っているかのように。
アルトは石板から手を離した。
「……もう使わない」
震える声で言う。
「こんな魔法……二度と使わない」
その言葉に――。
暗闇の奥から、小さな笑い声が聞こえた。
『……本当に?』
「…………」
『ならば、もし目の前で誰かが死にかけた時も?』
アルトの表情が強張る。
『大切な者を守るために、力が必要になった時も?』
「……」
『その時も、使わないのか?』
答えられなかった。
アルトは拳を握る。
怖い。
記憶を失うことが怖い。
でも――。
誰かを見捨てることも怖かった。
「……ずるいよ」
小さく呟く。
返事はない。
アルトはゆっくりと顔を上げた。
そして、暗闇の奥へ続く道を見る。
まだ、この遺跡には何かがいる。
そして、自分がここへ呼ばれた理由も分かっていない。
「……行かなきゃ」
震える足で、一歩を踏み出す。
その瞬間。
背後から――。
カツン。
「……!」
アルトが振り返る。
誰もいない。
ただ、暗い通路が続いているだけだった。
なのに。
もう一度。
カツン。
カツン。
まるで――。
誰かが、アルトの後ろを歩いているようだった。
「…………」
アルトは息を殺した。
そして気づく。
壁に刻まれていた古代文字が、一つずつ淡く光り始めている。
まるで遺跡そのものが――。
アルトの目覚めを喜んでいるかのように。
そして暗闇の奥から、声が響いた。
『さあ――』
『次の文字を、探せ』
アルトの知らないところで。
千年前に途絶えたはずの、神の文字の物語が動き始めていた。




