第29話 消えた村人たち
第29話 消えた村人たち
空に浮かぶ巨大な黒きᚦが、ゆっくりと脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
まるで巨大な心臓のように。
そのたびに、リーネ村の景色が歪んでいく。
「……まずい」
少女が呟いた。
「何が起きているの?」
アルトが尋ねる。
「黒きᚦが、村とあなたとの繋がりだけではなく――村に住む人たち同士の繋がりまで断とうとしている」
「人同士の……繋がり?」
「家族、友人、思い出……。それらを一つずつ切れば、最後には『この人がここにいた』という事実そのものが残らなくなる」
アルトの顔が青ざめる。
「じゃあ……村のみんなは?」
「まだ完全には消えていない」
レグナスが答えた。
「だが、時間はない」
「どこにいるの?」
「それを探す」
レグナスは村を見渡した。
家はある。
井戸もある。
畑もある。
しかし、人だけがいない。
「……まるで、人間だけを抜き取ったようだな」
「そんな……」
アルトは自分の家へ走った。
扉を開ける。
「父さん!」
返事はない。
「母さん!」
静寂。
食卓には、昨日まで使われていたような食器が並んでいる。
椅子も二つ。
けれど、人はいない。
アルトは震える手で椅子に触れた。
その瞬間。
『アルト、早く食べなさい』
――母の声。
「……!」
アルトの目が見開かれる。
もう一度、椅子に触れる。
『冷めるぞ』
今度は父の声だった。
「父さん……!」
アルトは声のした方向を見る。
誰もいない。
けれど、声だけは確かに聞こえた。
「ここに……いたんだ」
胸の奥が締めつけられる。
「僕は……ここで暮らしていた」
少女が静かに頷いた。
「そうよ」
「なのに、どうして……」
黒きᚦが、また脈打つ。
ドクン。
すると、母の声が消えた。
「……え?」
アルトはもう一度椅子に触れる。
「母さん?」
何も聞こえない。
「母さん……?」
その瞬間、アルトの中に恐怖が走った。
「まさか……今の一瞬で……」
「アルト!」
少女が腕を掴む。
「まだ間に合う!」
「でも、どうすれば……」
レグナスが家の床を見た。
「この村にもルーンが刻まれている」
「え?」
床板を剥がす。
その下に、小さな黒い文字が浮かんでいた。
黒きᚦ。
ただし、これまで見てきたものよりはるかに小さい。
「村中にあるようだ」
レグナスが言う。
「一つ一つが、村人と世界を繋ぐ楔になっている」
「じゃあ、それを壊せば――」
「壊すだけでは駄目だ」
少女が首を横に振る。
「黒きᚦは、切られた繋がりをすぐに消してしまう」
「だったら……」
アルトは手の甲を見る。
最後の神の文字――「繋ぐ」。
「僕が、繋ぎ直す」
「できるの?」
「分からない」
アルトは笑った。
「でも……やってみる」
アルトは小さな黒きᚦに手をかざした。
「僕と、この家を繋ぐ」
最後の神の文字が輝いた。
白い光が床から広がる。
しかし――。
ズキンッ!
「っ……!」
頭に激痛が走った。
「アルト!」
少女が支える。
「大丈夫……」
アルトは歯を食いしばる。
「この程度……」
光が黒い文字を包み込む。
すると――。
村のあちこちから、声が聞こえ始めた。
『誰か……』
『ここはどこ?』
『助けて……』
『アルト……?』
「みんな……!」
アルトは立ち上がった。
声が聞こえる。
つまり、まだ存在している。
「レグナス!」
「分かっている」
レグナスが杖を構える。
「村中のルーンを探すぞ」
「うん!」
三人は村を走った。
家。
倉庫。
井戸。
教会。
畑。
それぞれの場所に、小さな黒きᚦが刻まれている。
アルトは一つずつ「繋ぐ」の文字で光を繋いでいく。
そのたびに、村人たちの声が戻ってきた。
だが――。
「……おかしい」
レグナスが立ち止まった。
「何が?」
「ルーンの数が多すぎる」
レグナスは村全体を見渡した。
「これは村人を消すためだけの術式ではない」
「じゃあ何のため?」
レグナスは答えなかった。
代わりに、村の中央を指差した。
巨大な黒きᚦ。
「すべての術式が、あそこに繋がっている」
アルトの顔が強張る。
「つまり……」
「村そのものが、巨大な術式だ」
少女が息を呑む。
「そんな……」
黒いローブの男が、遠くから静かに言った。
「ようやく気づいたか」
アルトが振り返る。
「あなたは知っていたの?」
「当然だ」
「だったら、どうして黙ってた!」
「お前が自分で気づかなければ意味がない」
「そんな言い方……!」
アルトが怒鳴る。
男は淡々と続けた。
「千年前も同じだった」
その言葉に、アルトの怒りが止まった。
「……千年前?」
「お前は、目の前のものだけを救おうとした」
「……」
「そして――もっと大きな繋がりを見落とした」
アルトの頭に、また記憶が流れ込んだ。
燃えるエルナ神都。
泣いている少女。
黒きᚦ。
そして――。
巨大な術式。
都市全体を包む無数の線。
「これ……リーネ村と同じだ」
少女の顔が曇る。
「そう」
「エルナ神都にも……同じ術式があった」
「違う」
男が否定した。
「リーネ村は、エルナ神都のために作られた」
「……え?」
アルトが振り向く。
男は村の地面を指差した。
「この村は千年前から、お前が消した都と繋がっている」
アルトの瞳が揺れる。
「じゃあ……リーネ村は――」
「そうだ」
男が言った。
「お前の故郷は、偶然ここに存在したわけではない」
空の巨大な黒きᚦが、さらに大きく開く。
その奥から、無数の声が響いた。
『返して』
『私たちを』
『忘れないで』
『アルト……』
アルトは立ち尽くした。
千年前に消えた都。
今、自分が暮らしていた村。
そして、黒きᚦ。
すべてが一本の線で繋がっている。
「……僕は」
アルトは拳を握る。
「この村に来たんじゃない」
最後の神の文字が強く輝いた。
「千年前のあの日から――ずっと、この村に繋がっていたんだ」
その瞬間。
村の中央の巨大な黒きᚦが砕けた。
しかし、消えたのではない。
その下から――。
エルナ神都へ続く、巨大な地下階段が現れた。
そして階段の奥から、少女の声が響いた。
『アルト……』
『今度こそ、すべてを思い出して』
アルトは階段を見つめる。
レグナスが静かに言った。
「行くぞ」
「うん」
アルトは頷いた。
「今度こそ、誰も消させない」
その言葉を聞いた黒いローブの男は、ほんの少しだけ笑った。
「……それが言えるようになったか」
だが彼の背後では――。
誰にも気づかれないほど小さく。
黒きᚦの欠片が、ゆっくりと動いていた。
そしてその欠片は、黒いローブの男の胸へと吸い込まれていった。




