第26話 本当の名前
第26話 本当の名前
扉の向こうに――少年が立っていた。
アルトは息を呑んだ。
黒い髪。
傷だらけの服。
そして、自分と同じ顔。
「……僕?」
少年は何も言わない。
ただ、アルトを見つめている。
その瞳には、今のアルトにはない強い光が宿っていた。
「千年前の……僕なの?」
少女が静かに頷く。
「ええ」
レグナスも少年を見つめていた。
「これは記憶ではない」
「じゃあ、何?」
「お前の魂に残された――最後の記録だ」
アルトは一歩、少年へ近づいた。
すると少年が口を開く。
「お前は、僕じゃない」
「……え?」
「僕は千年前の僕」
少年は自分の胸を指す。
「そして、お前は千年後の僕だ」
アルトは戸惑う。
「同じじゃないの?」
「違う」
少年は首を振った。
「僕には、まだ知らない未来がある」
そしてアルトを指差す。
「お前には、僕が知らない千年がある」
アルトは言葉を失った。
――自分は千年前の自分そのものではない。
千年前から続く魂を持っている。
でも、千年の間に新しい時間を生きた。
リーネ村で暮らし。
父と過ごし。
そしてレグナスと出会った。
「……そうか」
アルトは小さく笑った。
「僕は、僕なんだ」
その言葉に――
ᛗ(マンナズ)――「人間・自己」を意味するルーンが輝いた。
少年の姿が少しだけ揺らぐ。
「やっと気づいたな」
「何に?」
「名前は、誰かに与えられるだけのものじゃない」
少年は笑う。
「自分で生きた時間が、その名前を作る」
アルトの胸が熱くなる。
「じゃあ……僕の本当の名前は?」
少年は答えない。
ただ、一歩近づく。
そしてアルトの胸に手を当てた。
その瞬間――
膨大な記憶が流れ込んできた。
――千年前の神都。
――黒きᚦ。
――少女。
――戦い。
――失われた人々。
そして最後に――
一つの声。
『あなたの名前は――』
そこで記憶が途切れた。
「……また、そこだけ消えるの?」
アルトが頭を抱える。
レグナスが呟いた。
「黒きᚦが最後まで隠している」
「僕の名前を?」
「正確には――」
レグナスはアルトを見る。
「名前に結びついた、お前自身の存在だ」
アルトは黙った。
少女がゆっくり近づいてくる。
「名前を取り戻すことは、単に言葉を思い出すことではない」
「……」
「千年前のあなたが何者だったのか」
「何を願い、何を恐れ、何を守ろうとしたのか」
少女はアルトの胸に手を添える。
「それを受け入れること」
アルトは目を閉じた。
そして、少女の手を握る。
「だったら……受け入れる」
「え?」
「僕が大罪人だったことも」
少女の瞳が揺れる。
「たくさんの人を消してしまったことも」
「……」
「君を忘れてしまったことも」
アルトは目を開ける。
「全部、僕の過去だから」
一瞬の沈黙。
そして少女は、涙を浮かべて微笑んだ。
「……ありがとう」
そのとき――
ドクン。
アルトの胸の奥で黒きᚦが脈打った。
『受け入れるだと?』
低い声が響く。
『ならば、その罪も背負え』
黒い影が現れる。
『お前が過去を受け入れるほど、私は強くなる』
アルトは影を睨む。
「それでもいい」
『……何?』
「僕はもう逃げない」
アルトは手を伸ばした。
最後の神の文字――
『繋ぐ』
が輝く。
「過去と今をつなぐ」
光が少年へ伸びる。
「千年前の僕と――」
さらに光が伸びる。
「今の僕をつなぐ」
少年の身体が光になっていく。
「そして、未来へつなぐ!」
少年は最後に笑った。
「それでいい」
光がアルトの胸へ吸い込まれる。
――ドクン。
今まで失われていた記憶が、一つだけ戻った。
父の声。
『アルト』
幼い頃。
父が頭を撫でてくれた記憶。
「……父さん」
アルトの目から涙が落ちた。
「戻った……」
しかし、まだ本当の名前は思い出せない。
それでも――
以前とは違った。
もう「失った」ことを恐れてはいなかった。
「僕の名前は、いつか必ず取り戻す」
少女が頷く。
「ええ」
レグナスが周囲を見回した。
「話は終わったか?」
「え?」
「神殿が崩れている」
「……」
アルトが周囲を見る。
天井には大きな亀裂。
柱は次々と倒れている。
「……逃げたほうがいい?」
「当然だ」
「もっと早く言ってよ!」
三人は走り出した。
その背後で、黒き神の咆哮が響く。
『逃げられると思うな……』
ズズズズズ……!
神殿の奥から黒い波動が押し寄せる。
アルトは振り返る。
「まだ追ってくる!」
少女が叫ぶ。
「神都から出れば、黒きᚦは追ってこられない!」
「本当に!?」
「完全にはね!」
「完全には!?」
レグナスが走りながら言う。
「細かいことは後だ!」
「それ、細かくないよ!」
三人は崩壊する神殿を駆け抜ける。
そして――
地上へ続く階段が見えた。
「出口だ!」
アルトが叫ぶ。
その瞬間。
背後から巨大な黒い腕が伸びてきた。
少女が振り返る。
「アルト!」
「分かってる!」
アルトは手を掲げる。
ᛉ(アルギズ)――「守護」。
結界が展開する。
ドゴォォォン!
黒い腕が結界に激突した。
「今だ!」
三人は階段を駆け上がる。
そして――
神都の地上へ飛び出した。
外には、夜空が広がっていた。
久しぶりに見る星。
アルトは息を切らしながら空を見上げる。
「……外だ」
少女も空を見上げる。
「千年ぶりね」
その横顔を見て、アルトは思った。
まだ、すべては終わっていない。
本当の名前も。
消えた人々も。
黒きᚦも。
そして――
彼女自身の名前も。
「ねえ」
アルトが少女を見る。
「まだ、君の名前を聞いてない」
少女は少し驚いた顔をした。
そして――
「……そうね」
悲しそうに笑った。
「でも、今はまだ教えられない」
「どうして?」
少女は夜空を見上げる。
「あなたが思い出すまで」
「……僕が?」
「ええ」
その瞬間、遠くの空に黒い亀裂が走った。
少女の顔が青ざめる。
「……もう、時間がない」
「何が?」
少女は答えなかった。
ただ、アルトの手を握る。
「急ぎましょう」
「どこへ?」
少女は、初めて少しだけ怯えた表情を見せた。
「リーネ村へ」
「……え?」
「黒きᚦが、次に狙う場所は――」
少女は静かに告げた。
「あなたの故郷よ」
アルトの表情が凍った。
第26話 終




