第22話 最後の神の文字
第22話 最後の神の文字
エルナ神都に、千年ぶりの鐘が鳴り響いていた。
ゴォォォォン――。
その音が地下都市の隅々まで広がるたび、石造りの建物から淡い光が浮かび上がっていく。
消えたはずの都。
誰からも忘れられた都。
その場所に、少しずつ「存在」が戻り始めていた。
「……すごい」
アルトは街並みを見渡した。
さっきまで何もなかった場所に、家がある。
壊れた市場。
小さな教会。
子どもたちが遊んでいたのであろう広場。
そして――無数の人影。
けれど、それらは実体ではない。
淡い光でできた、記憶の残滓だった。
「千年間……ずっと残っていたの?」
アルトが尋ねる。
少女は頷いた。
「正確には、残っていたのではないわ」
「え?」
「あなたが切ってしまったのは、都と世界とのつながり」
少女は街を見つめる。
「けれど、人々の想いまでは完全に消せなかった」
「想い……」
「誰かを愛した記憶」
「家族との思い出」
「友達と笑った時間」
「明日も生きたいと思った願い」
少女は静かに言った。
「そういうものは、黒きᚦでも完全には消せなかったの」
アルトは胸に手を当てた。
そこに何かが響いている。
知らないはずなのに、知っている。
懐かしいはずなのに、思い出せない。
そんな不思議な感覚。
そのとき――
「アルト」
小さな声が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
「……今、誰か僕を呼んだ?」
レグナスが周囲を見る。
「私には聞こえなかった」
「じゃあ、僕にだけ?」
「そうかもしれない」
「……それ、ちょっと怖いんだけど」
「今さらだな」
「今さらって言わないでよ!」
少女が小さく笑った。
「あなたには聞こえるのよ」
「僕に?」
「この都に残された記憶が」
アルトは再び街を見る。
すると――
一人の少年が立っていた。
十歳くらいだろうか。
手には木の剣を持っている。
少年はアルトを見ると、笑った。
「兄ちゃん、強そうだな!」
「え?」
「俺、大きくなったら騎士になるんだ!」
アルトは言葉を失った。
少年の姿は、すぐに薄くなっていく。
「……待って」
手を伸ばす。
しかし触れられない。
「君の名前は?」
少年は笑った。
「俺は――」
その瞬間、姿が消えた。
アルトの胸に痛みが走る。
名前だけが、聞き取れなかった。
「……まただ」
アルトは拳を握った。
「また名前を失った」
少女が悲しそうに目を伏せる。
「それが、黒きᚦの爪痕よ」
「……」
「存在を切られるということは、名前を失うということでもある」
レグナスが言った。
「だからエルナ神都の人々は、歴史から消えた」
アルトは街を見渡した。
「なら……」
「うん?」
「名前を取り戻せばいいんだ」
少女が目を見開いた。
「……そう」
「この都にいた人たちの名前を、一人ずつ」
アルトは拳を握る。
「全部、取り戻す」
その瞬間だった。
――ドクン。
アルトの胸の黒い紋様が大きく脈打つ。
「ぐっ……!」
膝をつく。
「アルト!」
レグナスが駆け寄る。
黒い線が腕を這っていく。
「……来る」
少女の顔が険しくなる。
「黒きᚦが、あなたの決意に反応している」
「僕が……エルナ神都を取り戻そうとすると?」
「ええ」
「じゃあ――」
アルトは苦痛に耐えながら立ち上がった。
「絶対に負けられないじゃないか」
黒い影が、街の中央に現れた。
「愚かな……」
赤い目がアルトを見つめる。
「お前は罪を忘れたのか?」
「忘れてない」
「ならば理解しているはずだ」
影の声が響く。
「お前が救おうとした結果、何万人もの存在が消えた」
アルトは黙っていた。
「お前は英雄ではない」
「……うん」
「大罪人だ」
「……そうかもしれない」
レグナスがアルトを見る。
だがアルトは逃げなかった。
「でも」
顔を上げる。
「だからって、何もしない理由にはならない」
黒い影が揺らぐ。
「……何?」
「僕がやったことなら、僕が向き合う」
アルトは少女を見る。
「この人たちを消したままにはしない」
そして、自分の胸に手を当てた。
「僕は……この罪から逃げない」
黒い影が叫んだ。
「ならば――すべて思い出せ!」
ズンッ!
黒い衝撃波が放たれた。
少女が叫ぶ。
「アルト!」
アルトは反射的に手を掲げる。
ᛗ(マンナズ)――「人間・自己」を意味するルーン。
白い光が広がった。
続いて――
ᛋ(ソウェイル)――「光・太陽・勝利」を意味するルーン。
二つの光が重なり、アルトの身体を包み込む。
黒い衝撃が弾かれた。
「な……!」
影が初めて動揺した。
アルトは驚いた。
「……今までより、強い?」
少女が答える。
「違うわ」
「え?」
「あなたが、誰かとのつながりを守ろうとしているから」
その言葉に、アルトの胸が熱くなる。
そして――
手の甲に刻まれた謎の文字が輝いた。
「これ……」
少女が息を呑む。
「最後の神の文字……」
光が広がる。
文字の意味が、アルトの頭へ流れ込んできた。
『繋ぐ』
「……つなぐ」
アルトが呟く。
ᛗは、自分自身。
ᛋは、光。
そして最後の文字は――
「人と人を……」
アルトは街を見る。
「過去と未来を……」
そして少女を見る。
「僕と、君を……」
文字が強く輝いた。
「つなぐための文字なんだ」
少女の目から、一粒の涙が落ちた。
「……やっと」
その声は震えていた。
「やっと、あなたが見つけた」
「何を?」
少女は微笑む。
「あなた自身の答えを」
その瞬間。
エルナ神都のすべての灯りが、一斉に点いた。
消えていた街が、光に包まれる。
無数の人影が現れた。
老人。
大人。
子ども。
兵士。
商人。
そして――
アルトへ向かって、静かに頭を下げる。
誰も責めていなかった。
誰も恨んでいなかった。
ただ、そこにいた。
「……僕は」
アルトの目から涙が落ちる。
「もう、忘れない」
その言葉に応えるように、都の鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
だが、その直後。
地面の奥から、別の音が響いた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
レグナスが振り返る。
「……これは」
少女の表情から笑みが消えた。
「まだ終わっていない」
「何が?」
少女は、神都のさらに地下を見つめる。
「黒きᚦは、あなたの中だけにあるんじゃない」
アルトの顔が凍る。
「……え?」
「千年前、あなたが切り離したものの中に――」
少女は静かに告げた。
「黒きᚦの本体が残っている」
地下深く。
巨大な黒い扉が、ゆっくりと開き始めた。
そして、その向こうから――
千年前に世界を脅かしたものの気配が、蘇った。




