第15話 記憶を照らす神の文字
第15話 記憶を照らす神の文字
――アルト。
暗闇の中で、少女の声が響いた。
白い衣をまとった少女が、両手で何かを大切そうに抱えている。
それは、淡い光を放つ一つのルーンだった。
少女はアルトを見つめる。
その瞳には、悲しみと、ほんの少しの笑顔が浮かんでいた。
「アルト……思い出して」
「……君は……誰なんだ?」
アルトが手を伸ばす。
だが、少女の姿は遠ざかっていく。
「待って!」
――その瞬間。
少女の手の中にあったルーンが、強烈な光を放った。
アルトの意識が、現実へと引き戻される。
「――っ!」
目を開ける。
目の前には、崩れかけた遺跡の壁。
そして――。
「アルト」
レグナスが立っていた。
「……大丈夫か」
「……うん」
アルトは額を押さえた。
頭の奥が、ズキズキと痛む。
まただ。
また記憶を失った。
何を失ったのか。
それすら分からない。
「……僕、また何か忘れた」
「そうか」
レグナスは静かに答えた。
「怖くないの?」
「怖いに決まっている」
「……だよね」
「私も記憶を失うのは嫌だ」
「レグナスも怖いんだ」
「千年間、何も食べていないことのほうが怖い」
「そっち!?」
思わずアルトが突っ込む。
ほんの一瞬だけ。
重かった空気が軽くなった。
だが――。
次の瞬間。
地面が大きく揺れた。
ズズズズズ……。
「……冗談を言っている場合ではなさそうだな」
「そうみたいだね……」
遺跡の奥。
黒きᚦ(スリサズ)の意思が、こちらを睨んでいた。
赤い瞳が、ゆっくりと細くなる。
『繋がり……か』
低い声が響く。
『ならば、次はその繋がりそのものを断とう』
黒い線が走った。
アルトは反射的に手を上げる。
「ᛗ(マンナズ)――!」
白い光が広がる。
自分自身との繋がり。
レグナスとの繋がり。
そして、まだ失われていない記憶との繋がり。
無数の白い線がアルトの身体を包んだ。
しかし――。
黒い線が迫る。
ギィィィィンッ!
白と黒がぶつかり合った。
「ぐっ……!」
アルトの身体が後ろへ押される。
「アルト!」
「大丈夫!」
歯を食いしばる。
その瞬間だった。
――ピシッ。
何かが割れる音がした。
アルトの手の甲。
そこに、新しい光が浮かび上がっている。
「……ルーン?」
レグナスが目を見開いた。
「これは……」
白く輝く文字。
それは今までのルーンとは違い、まるで太陽のような温かさを持っていた。
「このルーンは……」
アルトが触れる。
すると――。
頭の中に、無数の光景が流れ込んできた。
父親。
母親。
リーネ村。
幼い頃の自分。
そして――あの少女。
「――っ!」
アルトは息を呑んだ。
今まで見えなかったものが、一瞬だけ見えた。
母親の顔。
ほんの一瞬だけ。
優しく笑っている。
「母さん……!」
手を伸ばす。
だが、光景は消えてしまった。
「……消えた」
アルトの目から涙がこぼれる。
「今……見えたんだ」
「何がだ」
「母さんの顔」
レグナスは何も言わなかった。
アルトは震える手を見つめる。
「忘れたと思ってた」
「……違う」
レグナスが静かに言った。
「完全に消えたわけではない」
「え?」
「お前の中には、まだ残っている」
レグナスが新しいルーンを見る。
「この文字が、それを照らしている」
「照らす……?」
レグナスは頷いた。
「そのルーンは――」
白い文字が、さらに強く輝く。
「ᛋ(ソウェイル)――『光・太陽・勝利』を意味するルーンだ」
「ソウェイル……」
アルトはその名前を口にした。
すると、胸の奥が温かくなった。
まるで、遠い昔から知っていた言葉のようだった。
『光……』
黒きᚦの意思が、初めて動揺した。
『その文字を……』
赤い瞳が揺れる。
『なぜ、お前が持っている』
「……知ってるの?」
アルトが問いかける。
しかし、影は答えない。
ただ、黒い腕を大きく振り上げた。
『消えろ』
無数の黒い線が飛ぶ。
「来るぞ!」
「分かってる!」
アルトはᛗ(マンナズ)を発動させる。
白い線が広がる。
だが――。
今度は、それだけではなかった。
「ᛋ(ソウェイル)――!」
光が爆発した。
遺跡全体が白く染まる。
黒い線が光に触れた瞬間――。
バチィィィッ!
『ぐっ……!』
黒きᚦの意思が初めて苦しそうな声を上げた。
「効いてる……!」
アルトは驚く。
ソウェイルの光は、黒きᚦを消滅させているわけではない。
その存在を照らし出している。
隠されていたもの。
断ち切られていたもの。
見えなくされていた記憶。
それらを、光の中へ浮かび上がらせていく。
「レグナス!」
「ああ」
レグナスが杖を構える。
「今なら見える」
「何が?」
「黒きᚦの本体ではない」
レグナスの目が、影の胸元を捉える。
「その意思と、お前を繋いでいる糸だ」
アルトは目を凝らした。
見えた。
黒い影から伸びる一本の細い線。
それはアルトの胸へと繋がっている。
「……僕と繋がってる」
「そうだ」
「じゃあ……」
アルトは拳を握る。
「その繋がりを断てばいい?」
「いや」
レグナスは首を横に振った。
「それをすれば、お前の中に封じられたものまで失う可能性がある」
「……!」
アルトの表情が固まる。
黒きᚦは、アルトの中に何かを封じている。
ならば、その繋がりを無理に断つことはできない。
「だったら……」
アルトはソウェイルの光を見つめた。
「断たない」
「……何?」
「僕は、全部取り戻す」
光が強くなる。
「失った記憶も」
さらに強く。
「母さんの顔も」
そして――。
「この子のことも」
少女の姿が、光の中に浮かんだ。
白い衣。
長い髪。
悲しそうな瞳。
少女の唇が動く。
――アルト。
アルトは目を見開いた。
「……今、聞こえた」
「何がだ」
「僕の名前を呼んだ」
少女が微笑む。
そして――。
「……忘れないで」
その声が、確かに響いた。
アルトの胸が強く締め付けられる。
「……忘れない」
涙を拭う。
「絶対に忘れない」
黒きᚦの意思が咆哮した。
『ならば――その記憶ごと奪う!』
巨大な黒い刃が振り下ろされる。
「アルト!」
「うおおおおっ!」
ᛗ(マンナズ)の白い光と、ᛋ(ソウェイル)の光が重なった。
黒い刃が――止まる。
そして。
――パキン。
黒き影に、初めて大きな亀裂が入った。
『なぜだ……』
影が震える。
『なぜ、まだ繋がっている……!』
アルトは叫んだ。
「僕が僕だからだ!」
光が遺跡を包み込む。
その瞬間――。
遠い千年前の記憶が、ほんの一瞬だけ蘇った。
少女がアルトの手を握っている。
そして彼女は泣きながら笑っていた。
「今度こそ……見つけて」
アルトはその言葉を聞きながら、静かに目を閉じた。
「……分かった」
そして、目を開く。
「必ず見つける」
――少女の名前を。
――自分が何者だったのかを。
――そして、千年前に何が起きたのかを。
すべてを取り戻すために。
だがその直後。
遺跡のさらに奥から――。
ドクン。
巨大な鼓動が響いた。
レグナスが振り返る。
「……まだいる」
「何が?」
「この遺跡の奥に――」
レグナスの表情が、初めて険しくなる。
「黒きᚦよりも古いものがいる」
アルトは唾を呑み込んだ。
「……え?」
そして、暗闇の奥で。
巨大な一つの目が――ゆっくりと開いた。




