第七十一話 安堵と絶望
エルデンシュトラの山岳道。
落石が起きた場所は、瓦礫と岩で埋め尽くされている。
今もパラパラと小石が崖から転がり落ちていた。
ズッズズ……とひとつの土の塊が流れると、ゴロゴッゴォ……と小規模の崩落が起きた。
オスカー上級曹長は、近くで起きたその小規模の崩落で意識を取り戻した。
(……なんだ…………?)
身体を動かそうとしたが、右足の膝から下が挟まり身動きが取れない。
幸か不幸か挟まれた圧で出血は最小限で済んでいる。
ショック状態からか記憶が混線している。
(そうだ……落石に巻き込まれたんだ)
もう一度足を引いてみようとするが、膝上までしか感覚が届いていないのを感じる。
(右足はもうダメだ……)
そう思うも今まだ命があることに安堵する。
瓦礫の向こう側に耳を凝らすが、人のいる気配を感じない。
時折転がり落ちてくる小石の音と、狼の遠吠えがかすかに聞こえるだけだ。
ここに取り残されているのは、自分だけなのかもしれない。
そう思うと恐怖が支配してこようとする。
ブルっと身震いをする。
(混乱するな、怯えるな)
そこまで考えて事故の直前を思い出そうとする。
馬車が落石を受けた。その後は記憶がない。
でも、その前は──雷のあとに数回の爆発音と地面の揺れ。
爆発音は雷とは違った。この事故は仕向けられた事故の可能性を高く感じた。
状況を整理していたその時だった。
自分が囲まれている瓦礫の向こうから、人の気配を感じる。
地面を踏みしめる複数の足音が近づいてくる。
近くに着くと、そのうちのひとりが声を上げた。
「救助だ。生存者はいるか?」
安堵と同時に声を出そうとして、オスカー上級曹長は止めた。
(人為的な落石だったら……これは救助を装った口封じかもしれん)
まずその声の主が誰なのかを探る。
無機質で特徴の少ない声。だがその特徴の無さこそが、人間味をすべて排除しているように感じた。
そのような人間と関わった記憶は……覚えはなかった。
(現地の者か、それとも自分の知らない帝国軍の者か……)
相手の素性を確かめたい。
だが、視界は閉ざされ少しの光さえも届かぬ空間。音と気配だけで見極めることに不安はある。
落石を謀った者であれば、自分の存在を知らせれば、口封じをされるだろう。
これがもし本当の救助隊だったなら……
声を出さずにいれば、見つけられることもなく、助かる可能性を捨てることになる。
(どちらだ……)
外にいるのが何者なのか、状況に神経を尖らせた。
(外の集団は四ないし五人程か?)
(少佐クラスの特使への救助隊にしては少なすぎる……)
(いや、さっきも小規模の崩落が起きていた、二次崩落を考慮した先陣部隊なのかもしれない)
(それか、ここから一番近い検問所からの緊急の救助編成か?)
検問所は今朝まで滞在していたが、末端の兵とまで会話などしていない。
声に聞き覚えのないのは当然のことだ。
そうやって、これは正規の救助なのだと思い込みたい気持ちが沸きあがる。
だが、戦場で何度も経験してきた。
思い込みで行動すれば命を失う。
(自分の耳を信じろ)
周囲を動き回る人間の瓦礫を踏み抜く音、木片をひっくり返しているような音から、聞き分ける。
ひととおり生存者を探した後、しゃがれた男の声がした。
「ここに残っているのは死体だけだ」
その言葉を出した主の方角から音がする。
足元の瓦礫を足で小突いたのか、ザッガラガラ……と破片が飛んで、当たった先の小さな塊が崩れ落ちた。
すこし離れた所から、無機質で特徴の少ない声の男が周囲に伝える。
「生存者がいないのであればそれでいい」
「あれを探せ。おそらくこの潰れた馬車の中だ」
その指示に、オスカーの近くにいた人間は瓦礫を掘り起こし始める。
瓦礫をかき分ける音が近づいてくる。
この状況、周囲にいる人間は味方ではないと思うのが自然だった。
(あれってなんだ……)
状況の積み重ねで確信した。生存が見つかればタダでは済まない。
瓦礫を挟んだ向こう側には敵がいる。
そう分かると今度は、ドッドッドッと心臓が嫌な音をたてて主張してくる。
その間も謎の集団はあれを探すのに動き回っている。
無機質で特徴の少ない声の男が周囲へ注意を促している。
「あまりそっちには行くな。不発だった場所は落石がいつ起きるかわからん」
その声がかかると、複数人の足音がこちらに近づいてくる。
(俺の場所はもう崩落しきっているという事か)
身動きの取れない状況で、再度落石が起きれば絶体絶命だろう。
こんな状況でもほっとしてしまう自分の図太さに苦笑いする。
近くの箱を、外の人間が動かした。そのせいだろう、瓦礫のバランスが崩れ、小さな木片と土がこちら側に流れ込んでくる。
今まで真っ暗だったその場所に、小さな月明かりが差し込む。それは視線の際にやっと見えるほどの、方角を示す小さな光。
こちら側はまだ瓦礫の中だ。瓦礫と岩と馬車の残骸で、ぐしゃぐしゃになっているその状態は、かろうじてオスカーの存在を隠す。
だが、それ以上探し物の手が伸びれば、見つかるのも時間の問題だ。
向こう側から見えなくなるように、なにか出来ることはないか周囲を見回した。
そして、音を立てないように手で周囲を探る。木片や石、鉄のような冷たい感触。視線を遮れそうな物は見当たらなかった。
その時だった。一番近くで掘り起こしていた若い声の男が声を上げる。
「ありました」
先ほど引っ張り出した箱の中身が探していた物なのだろう。
無機質で特徴の少ない声の男は探し物を確かめる。
「間違いないな。これを倉庫に投棄だ」
オスカーは、その箱の中に入っていた物が何だったか思い出そうとする。
(あの中はユリウス侯爵との会談の議事録と倉庫台帳……ほかにも書類が入っていた)
オスカー上級曹長が考えている間も、瓦礫の外では男たちのやり取りが続いている。
紙束のやり取りをしたカサッという音がした後、若い声の男はその場を離れていく。
足の向かう方向はグローテハーフェン。だが、すんでの所で立ち止まり伺った。
「足場に使った梯子は、そのままにしておきますか?」
一瞬の間。
無機質で特徴の少ない声の男は答えた。
「いや、ここへすぐにたどり着かれても不都合だ。梯子は崖下に捨てろ」
「はっ」
探し物を受け取った男は一人でグローテハーフェン側へ、そして残りの人間たちはエルデンシュトラ方面へ別れてその場からいなくなった。
一難去って、その場は静まり返る。
オスカーは安堵と孤独を抱いていた。
そして先ほどの男達がボヤいた言葉を思い出す。
『ここに残っているのは死体だけだ』
どれくらいの規模の被害か、全容は分からない。
それでも、今朝まで一緒にいた誰かが、もう既に亡くなっている事実を突きつけられる。
この世界に誰もいないかのような孤独な空間は、自分の感情を露出させてくる。
「ぐっ」と嗚咽になりかけた呼吸が、勝手に音を出した。
喉奥からこみ上げる塊を、咳払いにすり替えて飲み込んだ。
(……悲観的になっている場合じゃない)
(俺はまだ生きるんだろ)
そう心の中で何度も念じ、負の感情が沸きあがるのを必死に堪えた。
ただ一つ視界の端に流れ込む月明りを頼りに、その場で息を潜め、体力を消耗しないようにただ待ち続けた──
朝日が昇り、真っ暗だったその場所もほんのりと明るくなる。
時間の流れを感じられるのはありがたい。
だが、いつ来るか分からない救援、そして自分の怪我の状況。それを考えれば孤独と恐怖に支配されそうになる。
朝日が昇り切ったあたりで、グローテハーフェン側の方から人のざわめきと指示が漏れ聞こえる。
「……岩を……は難しい……工兵……」
幻聴か?と疑いながらも耳をそばだてる。
しばらくするとガラッガラッと作業の音と、人の足音が近づいてきている。
次の声は近くではっきりと聞こえた。
「崩落箇所に足場確保。生存者の捜索に入ります」
後に続いてきた男が声を張り上げる。
「検問所から救援だ。生存者はいるか」
その声は先日世話になった検問所の、所長ラウエ大尉の声だった。
オスカーは声を出そうとするが、喉が張り付き音を出そうとした振動で、喉が擦れ痒くなり弱々しく咳き込んだ。
(ダメだ……これでは外に知らせられない)
(声以外で知らせる方法……)
そう考えると、夜中、右手近くに鉄の感覚を触ったのを思い出す。
そのあたりを手で探ると、ひんやりとした感触に触れた。
(幌の支えだろうか)
手に力をこめ、その場にある石を掴んで鉄に打ち付ける──
カン、カン、カン……
それは声よりも鋭くその場に響いた。深呼吸をひとつ挟み、もう一度規則的な音を出す。
カン、カン、カン……
大きな板がひとつ取り除かれた。
差し込む光が眩しくて目を開けていられなかった。
だが、近くで、ほぅと安堵のため息がひとつ聞こえた。そしてその男は声を上げる。
「生存者在り!」
その声に、他の者が集まってくる。
各員それぞれが工具を手に持ち、救出に取り掛かる。
明かりがどんどん広がっていく、そして視界が完全に開けた時、ラウエ大尉が顔を覗かせた。
ラウエ大尉は労うように、オスカーの顔についているだろう泥を水で流した。そして口元に水筒の飲み口を差し出してくる。
「もう大丈夫だ。よく耐えた」
久方ぶりに口にする水は、口中の血と泥で不味かった──
足を押しつぶしていた岩をどかした後、担架で運ぶには足場が悪すぎて運べない。
大柄の隊員一名の背中にオスカーは縛り付けられた。
視界が高くなり周囲の状況がよく見える。
瓦礫の上には、布の掛けられた遺体が二体。
埋まっている者を、全員は救出できていないようで、まだ作業している兵があちこちにいる。
布の掛けられた遺体に目をやり黙祷しようとする。
掛けられた布から見える手と黒い軍服の袖。
その見えた手は女性の手つきだった。
軍服を着用していた女性──
(リオラ……曹長……)
いつもそうだ。
普通に一緒に過ごしていた人間が、突如急にいなくなる。
布から見えていた手が焼き付いて離れない。
オスカーの中にいる彼女は元気なままなのに。
先日のやり取りが、現実を一致させるのを拒んでくる。
『分からないで食べたんですか?あはは』
いくら現実逃避しようとも、起きたことは曲げられない。
オスカーはうなだれ、感情を押し殺すように拳を握った。
その手は震え、白く血色を凍らせていた──




