第九十三話 円滑
私兵の追跡から逃れた一行は、その後も、大きな問題もなく北へ順調に進んでいく。
馬車の荷台に入り込む秋の夜風は、鼻の先を冷たく撫でる。
エルザは天幕につかう布を荷台の上へ渡し、支えを器用に組み立てて、簡易的な風除けを設置した。
ブランケットに包まるカタリナは、それでも悪寒に襲われ、カチカチと歯を鳴らしていた。
エルザは木箱の中にしまってある外套を引っ張り出して、カタリナにそっとかけた。
今カタリナは安全を確保されている。
侯爵邸から飛び出したあの日以来、やること全てがうまく行かず、一寸先の未来さえどうなるか分からなかった。
でも今、保護され、自分で歩かなくとも進んでいる。
この道は順調に、父ユリウスを追い詰める一本道へと巡りつく──
緊張が解けたからか、未来を理解しているからなのか、それとも熱のせいなのか、カタリナの目尻からは次から次へと涙が流れる。
(私の手でお父様を追い詰めてしまった)
自分が正しいと思っても、それは大切な父への裏切りになる。
でも、自分も父と同じ罰を受ける立場にいる。それは裏切る支えになっていた。
そんな心中を抱え、さらに熱で体力も奪われている。
心は重さを受け止めろと休むことを許さない。でも、脳はそれを拒否して思考を鈍らせる。
そうして馬車に揺られる時間のほとんどを、カタリナは寝て過ごした。
時折、激しい咳に肩を揺らし、ゼロゼロと痰の絡んだ呼吸を繰り返す。
隊長の娘はそんなカタリナの様子が心配で、常に隣に寄り添っていた。
寄り添う彼女もまた、長い地下牢生活で疲弊している。
出てきた当初よりは顔色はよくなったが、それでも目元をしょぼしょぼとさせる仕草や、声の細さが回復しきれていない様子を物語っていた。
エルザは隊長の娘の疲労を察し「あなたも寝たほうがいいわよ」と声をかけるが、隊長の娘は小さく「はい……」とだけ返事を返し、ずっと起きて馬車に揺られていた。
空がすっかり明るくなった頃、天幕を不格好に張った馬車は、検問所近くまできていた。
「もうそろそろ検問所に着くぞ」
御者席にいるオットーは荷台のエルザへ声をかけた。
夜通しカタリナの様子と周囲に気を配っていたエルザも、さすがに疲れているのか出てきた欠伸を飲み込み、応えた。
「分かったわ」
エルザは風除けに張っていた天幕の布を、内側からはじく。
布にうっすらと付着していた朝露は、荷台の外へ雫となって流れ落ちた。
検問所が道の先に小さく見えている。
堅牢な塀と横木の大きな門。その奥に二階建ての建物、屋上には信号旗が確認できる。
門前には、朝早くから交易路を利用する行商人たちの姿が、ぽつりぽつりと見えている。
屋上の見張りが馬車に気が付いたのか、信号旗が短く振られた。
その合図で、門横に待機していた兵がこちらを向いた。そして併設されている管理小屋から、数人の兵士が顔を覗かせる。
後ろを騎乗で護衛していたマーティン曹長が、速度を上げ伝えに行く。
遠目から見ればマーティンの格好は軍人には見えない。
速度を上げて近づく騎乗の男が現れれば、門前にうっすらと緊張が走り、管理小屋にいた数人の兵が警戒態勢に入り外へ出てきた。
目視できるだろう距離まで近づくと、門兵たちも認識したのか警戒する空気が緩んだ。
「第十三特務大隊曹長、マーティン・クレガーだ」
「対象の女性二名を保護、治療が必要な状態だ。軍医の手配とラウエ大尉へ報告を頼む」
管理小屋で待機していた一人の兵は、その伝言を受け取ると敬礼をひとつ挟みその場を離れた。
オットー達の乗る馬車が遅れて検問所近くまで来る。そして、門前にいる一般の利用者の間を通るのに速度を落とす。
厳重に確認されるのが通例の検問所を、兵たちの誘導で素通りしていく様子は、嫌でも人々の視線を集めた。
風除けの天幕は、今は視線を遮る役割になる。
オットーは馬車を低速のまま走らせ、検問所の敷地内を進んでいく。
少し進んだ先にある兵士宿舎へ着くと、玄関前に横づけした。
玄関先では軍医と衛生兵がすでに待機していた。
カタリナは肩を借りながら荷台から降りると、そのまま兵士宿舎にある治療室へ運ばれる。
同行している隊長の娘は心配そうに後ろからついていった──
二人は診察が終わると、療養する部屋へ通される。ここは検問所、療養部屋はひとつしかない。
六つに並べられたベッドは簡素な造りだ。
布の衝立でそれぞれ遮られてはいるが、他のベッドに人がいる気配はそれとなく察せられる。
ここでは、先日起きた落石事故の負傷者も治療を受けていた。
すでに人が使っている三つのベッド。その中の奥のベッドには、右足を失ったオスカー上級曹長がいた──
一方、エルデンシュトラ南部の臨時診療所。
落石事故で左腕を負傷したジークフリートは、未だ腕を固定されたままだが、女性軍医から診療所内での歩行許可を得ていた。
ジークフリートは療養部屋のベッドから起き上がる。
傍には女性軍医がしかめっ面でその様子を眺めていた。
「生活の範囲内での歩行は許可しますが、力のかかるような行動は控えてください」
「うん。わかったよ」
「失血の影響もまだ残っています。歩行には必ず随伴者をつけてください」
「うん。そうする」
午前中のこの時間、この診療所に滞在しているのはジークフリートと護衛の兵たち、そして軍医と衛生兵。
アンネリーゼは落石処理の現場の天幕へ、事務関係で朝から出かけている。
動けるようになれば、いつまでもここに滞在する理由は薄い。
判断が分散する現状をそのままにしておくことはできない。
ジークフリートは情報が集結する伯爵邸へ移動する準備を進める。
「軍事転用している伯爵邸へ戻る手配をしてほしいんだ」
「馬車に半日揺られるくらいなら大丈夫でしょう?」
護衛として控えていたハーゲン軍曹へ移動の手配を指示すると、続けて女性軍医へと飄々と告げたのだ。
女性軍医は「聞いていましたか?」と険しい表情をしている。
ジークフリートは柔和に微笑み「うん。聞いていたよ」と、動く右肩だけを小さくすくめた。
「力のかかることはしない。歩行には随伴者をつける。ここを離れれば、あなたも責任から解放される」
「相互利益だ。問題はないでしょう?」
問題しかない。
そう言ったところで、止まる患者ではないことは分かり切っていた。女性軍医はため息だけを返した。
アウグスト元帥の指示により、倉庫台帳と議事録の紛失を調査するため、元帥府から人員がエルデンシュトラに到着していた。
これからグローテハーフェン内に入ると報告を受けている。
現時点で入っている情報から、倉庫台帳と議事録は崩落事故にあった馬車内から、何者かによって運び出されたとオスカー上級曹長の証言が入っている。
そして、ジークフリートは、その倉庫台帳や議事録の中に何が書かれていたかおおよそ把握している。
関係している人物周りは記憶の中にあるのだ。
そうして導き出された結果、紛失したそれらの資料は、グローテハーフェン内に持ち出されたと推察される。
ユリウス侯爵とそれに近しい者か、ジギスムント宰相関係の施設を調べ上げることになった。
その旨元帥府から通達が出されたとき、ユリウス侯爵からの返答はあっさりしたものだったらしい。
(言い逃れの出来る算段は整えているってわけか)
あの時ジークフリートが旧道を選んでいたら、落石事故には巻き込まれなかっただろう。
だが、旧道の管理舎からは日数が経過した今も返事が来ず、調査の人員を派遣している。
落石事故の現場からは、その後の調べで、高所に崩落規模を最大化させる細工が意図的にされていた。
それは一朝一夕では出来ない構造だった。
そして不発箇所が二か所。もしそれが起爆していれば特使の一団は全滅していただろう。
起爆箇所の近くには、人目を避けるように小さな穴ぐらがあり、そこに簡素な建物があった。
湿気を避けるように作られたその建物は、中身が空っぽになった状態で見つかった。
近くで爆発を起こした痕跡から、硝石や火薬類を保管していた可能性が高かった。
ハインリヒが送り込んだ地形班により分析が進められている。
そして、数日前に女性二名の失踪の件についてジークフリートは三名の部下に捜索の指示を出していた。
その情報はまだ入ってこない。
(無事に確保できればいいんだけど)
情報は入らなくとも、ジークフリートのやるべきことは増えていく。
そして、それに伴い女性軍医の眉間の皺は深くなる。




