第十話 無題 (1)
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良い星が出ているなあと思って、家の縁側から夜空を眺めていたら、なんだか眠くなってきた。夜風は涼しくて、庭にある木々がざわざわと葉をこすりつけあう音が聞こえる。ぼくはそれを、まるで子守唄みたいに聴いていた。風鈴の音。縁を照らす電気はなく、居間の灯りが家の奥でともっている。薄暗い中でぼくは寝転ぶ。
――子守唄。ぼくはそれを母さんの口から聴いたことがあるのだろうか。そんなことを思いながらまどろんでいたせいか、夢だかそれとも今考えていることなんだか分からないけど、懐かしい思い出ばかりが頭の中に霧みたいに浮かび始めた。
母さんの実家へ行ったとき、紫煙を空に吹かすおばあちゃんは、母さんに嫌みったらしい言葉を吐いていた。病院の帰りのことだった。ぼくはししおどしの動きに夢中で、それを触ろうとしたら「行儀の悪い子だ」とおばあちゃんに叱られた。
とりとめのない思考は、次から次へと移り変わった。ぼくは病院のベッドの中で、ルナとじゃれあっていた。いつもそんなことばかりしていた。おままごとみたいな。ルナが猫の役で、ぼくが犬の役。そんな遊びをいつもしていた。母さんが医者を連れて病室にやってくると、ぼくはベッドから出ないといけない。
その日は花火の音がした。
病室の窓からじゃ見えなかった。
花火の音を感じながら、ぼくとルナは無邪気にむぎゅっと抱き合って、頭の中で作り上げたストーリーを手当り次第に口にする。それをお互いの耳にささやいたりしながら、くすくすと笑ってセリフを言う。その日は花火の音に触発されてか、お祭りの物語だった。お魚が好きなルナ猫は、金魚すくいの金魚を全部食べてしまうとかなんとか。
唐突に思い出すのは、あの春の日のあとのことだった。
お腹がいっぱいになったように満足だったあの夜、ぼくは眠りに沈んでいく最中で、ふと寂しくなった。隣にルナの顔があったらいいのにと思ったのだ。隣にルナの匂いがあったらいいのに、と。
春休みのくだらない日々を過ごしていくたび、しだいにその寂しさがぼくの中にぽっかりと穴をあけた。ゴミ箱に捨てられたドーナツのパッケージやふと思い出すドーナツの味、なんだっけ、スターバックスで買ったあの飲料の名前。なかなか捨てられない例のカップは、まだぼくの机の上にある。
それを見るたび、ぼくは異常なほどの喪失感に襲われる。
ルナはむかし、当たり前のようにぼくの隣にいた。でもその記憶は蝉の脱け殻みたいに、遺品みたいに思われてきて、ルナはもう別のところへ消えてしまったんじゃないかと無性に心配になった。高校では部活なんてしないでおこうと思ったのを、ぼくはやっぱり入部届を出すことにした。七村を誘って、カナタくんも一緒に――、ルナのやっている陸上部へ。
もしかしたらルナにあえるかもしれないという打算があった。会いたいのなら電話すればいいじゃないかと思ったけど、その気はなぜかなかった。偶然を装ってまた会いたかった。別れ方が気まずかったから、というのはあるかもしれない。
あの日、帰りの車の中でぼくはぐっすり眠っていた。トラック運転手の乱暴な運転をミラーで眺めているうちに。
「楽しかったか?」
親父が訊いた気がする。ぼくは、うん、と答えて深いところに落ちていった。ちょうど今、ぼくがまどろんでいるときみたいに。ルナがあがったらぼくもお風呂に入ろう。どうせ起こしてくれるはず。いつの間にか横になっていて、板張りの床は痛かったけど眠気が勝る。
今まで続いていた呼吸ができなくなって、ぼくは目を覚ましそうになるけど、身体も動かさず目だって閉じたまんまでいた。
――蒸気のまじった熱が、ぼくの顔に覆いかぶさっていた。
鼻の側面に冷たい突先がくっつけられていて、閉じた目の下あたりに二か所、くすぐったく感じられるのは明らかに毛先だった。だからぼくは目を閉じて、身体も動かさなかった。眠っているふりをしていた。何も気づいていないふりをしていた。
あまりの心地よさにため息が漏れそうになるのをぐっとのみこむ。唾の塊が喉をごくりと通った。息苦しかった。呼吸は鼻からするしかない。ぼくは風船が飛び立たないようにゆっくりと空気を抜くみたいに、ぎこちなく鼻から息を漏らした。
それは口の中に、蜂蜜みたいにとろりと流し込まれていく。半開きになっているはずのぼくの口の中へ。
「ん……、」
熱い吐息にとろけそうになった。ぼくの頬を両側から包む、繊細な手のひらの感触があった。
ぼくはずっと目を閉じたままでいた。それに気づかないふりをしていた。それが離れてくれるまで、ずっとずっと目を閉じたままで、何も考えないで、ぐっと身体を固めて、ずっとずっと永遠に耐えてやろうとしていた、
そしてそれは、ようやくぼくの口から離れていく。ぼくは永遠を耐え抜いたような気がする。
濡れた感触がぼくの唇の中にへばりつくように残った。名残惜しそうに、ぼくの頬を包んでいた手が遅れて溶けてなくなった。ぼくはぐっと目を閉じていた。寝返りも打たず、天井を見たまま死んだふりでもしているかのような気分だった。口のなかで混ざり合うなまあたたかい粘液の感触を静かに感じていた。
畳を擦る足音が遠くへ消えていって、ぼくは風鈴の音が鳴ったあとおそるおそる目をあける。
身体を起こして庭を見る。涼しい風がぼくの前髪を揺らした。暗闇の中に、いつもの犬が遠吠えした。
――おそろしいほど、何も考えられない。
ぼくはできるだけ気配を消して、お風呂に入ることにした。




