第十話 無題 (2)
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その夜は眠れなかった。ご飯を食べた後にうっかり眠りに沈んでしまったのもその理由の一つだけど、それよりむしろ、ぼくは枕に頭を乗せるとふと思ってしまうことがあった。
――隣にルナがいればいいのに。
空いた空間が無性に寂しかった。枕に顔を埋めると、ぼくはそのやわらかい感触が唇に触れるのを意識してしまい、さっきの出来事を考え込んでしまう。
さっきの出来事を考え込んでしまうとやめられなかった。
ぼくは思い切り枕に顔面を叩きつける。一回じゃ足らずに、二回、三回、何度も何度も、頭の中がぐしゃぐしゃに撹拌されて何が何やら分からなくなるぐらいに叩きつけて、
それでもぼくはさっきの出来事を、あの感触を思い出してしまった。
やめられなかった。止められない。ぼくはサイアクな奴だぼくはサイアクなヤツだと心をナイフでぐざぐざにしてやった。でもそれは自分が健常な判断力を持っていると自分に思い込ませているようなものだった。その時点でぼくは正常な判断なんてできなくなっていた。
何度も枕に顔面を投げ打って、真っ白な頭の中で冷静になる。
宿題をしよう。そう思った。
部屋の電気をつけて、デスクのスタンドライトをつけた。高校に入った春、どうしようもない寂しさをまぎらすために部活に専念しようと決意したときみたいに、ぼくは宿題に集中しよう。
夏休みの課題はまだまだたくさんある。ぼくの嫌いなグリーンピースを目の前に差し出して「食え」と脅されているようなものだ。どこにしまったっけ。夕立ちの風でばらばらになったプリントを、ぼくは手当り次第に蕪雑に集めて引出しにしまったのだ。ぼくは引出を開けて、今日は日本史を終わらせようと束の中から探っている途中で、
引出の角っこに、ぼくは見つけてしまう。
そうだった。これも、ぼくは、引出しにしまっていたんだった。どこへしまったらいいのか分からなかったから、目についたこの引出しに。
もうだめだと思った。もうだめだった。
ぼくはそれを手に取った。手に取ってそのことを思った。ぼくがこれを使う時のことを。この白いパッケージを破くときのことを。パッケージを破いて、その中身を取り出して、目の前にはそれを見守っているルナがいて、ルナはぼくにすべてをさらけだしていて、すべてをぼくに預けようとしていて、ぼくはピンク色の輪っかを、
もうだめだった。ぼくはそれをポケットの中にしまった。
「ぼくはサイテーのやつだ」
そうつぶやくことによって安心を得ながら、音をたてないようにドアノブをひねって外に出た。むわっとした空気の夜だった。家の中は真っ暗で、誰の気配もしない。ぼくの隣の部屋でいびきを立てているはずの親父もいない。階段が軋む音だけが響く。べとついたぼくの足の裏が、床に剥がれてかすかな音を立てる。
息を殺して闇を移動するあいだも、ぼくは呪いのようにその言葉を心の中で続けていた。
ぼくはサイテーの男だ、ぼくはサイテーの兄だ、でも寝顔を見るだけ、寝顔を見るだけ、
階段を下りて、何の音もしないのにぼくは辺りを見回して、仏間の隣、ふだんは客間として使っている和室を目指してぼくの足はゆっくりだけど止まらない。
こういうのを夜這いって言うのかと思った。ぼくはサイテーのヤツだと言い訳した。こういうのを「夜這い」って言うんだと思った。夜這い? いや、ぼくは寝顔を見るだけだから、
目の前に襖がぴったりとしまっていた。白く透ける障子のない方の、客間への入り口。玄関側で見た障子紙は暗く橙色をしていた。真っ暗にするのが怖いのだろうと思った。
ぼくは襖の取っ手に手をかけた。感触は鉄のように重く、それは襖が重いんじゃなくてぼく自身のためらいがさせていた。ほんとに、ほんとにそんなことしてしまうのかぼくは。でもじゃあルナはなんで寝ているぼくに――。だから別にいいじゃないか。でもそれをしないのが兄ってやつで、兄はそんなことしちゃだめじゃないのか。親父にばれたらどうする。母さんにばれたら。
――親父はこの家にはいない。
ここにいるぼくと、襖のむこうにルナだけがいる。
闇に慣れてきた視界で自分の手元をじっと見て――、ぼくはそこに力を込めた。
細く紙の側面程に開いた襖から入ってきたのは、弱い光と気配だった。さらに開ける。
気配。布ずれの音。動作の音。動作の、
「……、」
聞いたこともない声だった。
「! ……っ、」
月光の白さみたいな肌が、橙の光に火照らされているみたいだった。ぼくは頭が真っ白になる。取っ手にかけた手に力が入らない。釘付けにされたみたいに足が動かない。何もできない。ただ心臓が動いているだけだ。
ルナだった。そこには当たり前のことだけどルナがいた。本当にルナなのだろうか。でもそれは明らかにルナで、ルナは乱れたシーツをさらに乱して、キャミソールは肩から外れていて、天井を薄ら目で見つめていて、
「、……、」
ルナは寝返りを打つように悶える。苦悶に違いないけど幸せそうな表情で、それはまるで殻を破くときの蝶みたいで、キャミソールはもはや着るというよりまとわりついているだけみたいだった。長い髪が黒く布団の上に拡がり、あるいはルナを束縛するみたいに絡み付いていた。ぼくは取っ手にしがみつく。何も動くことができない。ただ心臓だけが動き回るのをこらえるように早鐘を打っている。でもぼくは行きたいのか、逃げたいのか。
「……!」
ルナが声を上げている。直感的に後ずさろうと思った。頭の中で想像するのはこんなにも容易だったことが、いざ目の前にしてみるとその巨大さにどうにもできなかった。どうにもならない壁のようにそれはあった。
「……ぃ、……」
もうやめよう。こんなことはするべきじゃない。早く、早く寝よう。寝て、朝が来て、いつも通りにふつうのなんでもない話をすればいいじゃないか。それだけでぼくは十分じゃないか。後ずさりたいと願う。足の裏と畳の床とが汗でひっついてはがれない。どうすればいいんだ、どうすれば、
「かぃ、カイっ……」
――仰向けになったままぐったりと、ルナの動きが止まった。あえぐ呼吸が落ち着くまではそのままで、ルナは右手を弱い灯りにかざしてから、むっくりと上半身を起き上がらせて肩紐を戻し、
人差し指で、ていねいに唇をなぞった。
微笑んでいるように見えた。
ルナが膝を折って、ふらつく身体を支えるように手をついて立ち上がった。こっちへ来る。はやく逃げなきゃ。床から足をはがして背を向ける。階段はどっちだったか迷って、できるだけ遠ざかろうと早足で居間へ、
背後で襖が開く。
心臓が止まってしまったかのように身体が動かなくなる。ルナの気配も同じだった。
時計の音がカチコチと時間を刻んでいた。ぼくらはしばらくの間、何もできなかった。
「、麦茶飲みに来たんだよ、喉が渇いてさ……」
決心したぼくは、振り返るとそう言って笑った。
「そうなんだ」とルナも笑って見せる。さっきの様子からは考えられないほど、落ち着いた笑い方だった。
「わたしも、麦茶」
「……そうか」
ルナがこちらへ近づいてくるのが見えて、ぼくは台所へむかった。台所の電気だけをつけると、冷蔵庫からボトル入りの冷えた麦茶を取りだす。ルナが戸棚から硝子のコップを出してくれている。
「ははは、なんだかセクスィーな格好じゃないか」
ぼくが冗談を言うと、ルナはあいまいに笑うだけだった。
喉が渇いていたのはうそじゃない。深呼吸をするように麦茶を飲んで、コップの中は一瞬でからっぽになってしまった。ルナも同じだった。
「コップ洗っとくから、先に寝ときなよ」
ぼくは返事も聞かずに蛇口をひねって、それからコップをかっさらう。背後で手持無沙汰になっているルナが感じられた。麦茶の汚れなんかすすげばそれだけでいいはずなのに、ぼくはわざわざ洗剤の泡を立てて、その気配が消えるのを待つ。だけど、ルナはぼくが洗い終えるのを待っているかのようにそこにじっと立っているような気がした。振り向かなかった。すぐそこにいるような気がしたから。
「……カイ、」
そしてやっぱり、そこにはルナがいる。
「見てたん、でしょ」
ぼくは、答えられない。――だけどそれが、答えになってしまう。泡をすすぐために蛇口の勢いを強める。ひたひたと、ぼくに近づいてくる気配があった。ぼくは身体を動かせなかった。だって心の底では、それをずっと待っていたのだから。
身震いするほどの心地よさが、ぼくを後ろからぎゅっと抱きしめた。
「カイって、彼女とかって、いる?」
もう耐えきれなかった。返事の代わりに正面から強く抱きしめて、耳元で「カイ……、」とよがるようなか細い声を聞く。これは頭の中じゃない。ルナはぼくには考えられない動きで動いて、ぼくを抱きしめ返す。そして柔らかい身体。重みのある、生きている身体。熱いくらいにあたたかい吐息。
ほんとに、ほんとにしちゃうんだなとうっすら思った。「いいよ、」とルナが言った。




