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第九話 コロッケとキャベツ

 *

 

 病気。その悪魔のような現象が影響を及ぼすのは、決して患部だけじゃない。

 ルナはむかしからそいつに振り回されて、蝕まれて、ほんとならぼくと一緒に幼稚園に通ってるはずなのに、ルナは病院のベッドで外を見つめていることしかできなかった。

 そして、それは今も変わらない。

 ルナは何かから突き放されたように床の上にへたれこんでいた。

 ――ルナちゃんはあんたに任せた

 そう、人には役目がある。ぼくには先輩を救うことができなかったけど、美村香奈は憧れという想いの強さで先輩を今にも救おうとしている。

 今こそ、ぼくはルナを救える。そのためにぼくはここにいるような気がした。

「……ルナ、」

 ぼくがルナの隣にしゃがみこむと、ルナはぼくに抱き着いてきた。それはなぜだか懐かしい感触だった。母さんと一緒に毎日のようにお見舞いへ行っていたぼくは、当たり前のようにルナとこうしていたのを思い出す。手さぐりで身体を確かめ合って、匂いでお互いを確かめ合う。ほんのかすかにだけど、この感覚はそうだ。

 ぼくはそっと、抱きしめ返した。もっと力を込めたいと思ったけど、それはぐっとこらえた。あのころはためらいもなく抱きしめることができたのに。

「カイ、」

 ぼくの鎖骨あたりに顔を潜りこませていたルナが、少し顔を上げた。

「……今日の晩ごはん、コロッケだから」

「ルナが作ってくれるのか?」

 ぼくは喜びで思わず言う。美村香奈と話していたのは、このことだったのだ。ルナは、しっかりと頷いた。

「だから、わたしは大丈夫だから、」

 ルナはまたぼくの胸に顔を押し付ける。心配いらないからね、と続けてぼくの胸にあつい吐息が注がれた。「分かってるよ」とぼくはルナの背中を撫でる。ワンピースごしに背骨の線が分かる。それはいまにもぼくの皮膚と溶けあってしまいそうなほど柔らかい感触で、ぼくは胸の奥で頭をもたげる感情をぐっとこらえた。

 ぼくはいつまでこんなことを続けるのだろうか。隠し事に気まずくなって、それをぼくがルナを慰めてなんとなくうやむやになって。それの繰り返しばかりじゃないか。

 檻の中に入っているのはぼくとルナだった。だけどそんな思いはルナが作ってくれるコロッケのことに押しのけられて、ぼくは自分が檻の中に入っていることを忘れてしまうのだった。

 

 *

 

 ぼくはルナの料理を手伝おうとしたんだけど、ルナはそれを「カイは今でテレビでも見てて」と頑なに断った。

 コロッケのタネは、お昼頃から美村香奈に教わりつつも、なんとか作り上げることができたらしい。あとは揚げるだけだった。それくらいならたしかに手伝わなくても大丈夫だよなと想い、ぼくはしぶしぶ引き上げて居間でマンガでも見ていた。テレビをつけなかったのは、ルナの料理する音が聞きたかったからだ。

 それにしても、こうやってルナが料理している姿を後ろから見ていると、ぼくはつい夢を頭の中に浮かべてしまう。

 夢だ。それは現実では決して体験することができない、夢。ぼくはその夢に目を奪われて、それ以外のものには目を向けたくなくなった。マンガはすぐに閉じて、ルナの姿ばかり観察していた。

 するとぼくの視線に気づいたルナが、

「……そんなに手伝いたいんなら、ちょっとだけだけど、手伝ってもらおっかな」

 菜箸を鉛筆みたいに持って言った。ぼくは命令された犬みたいに早速ルナの隣について、頼まれた任務――キャベツのみじん切りを始める。だけどぼくは、料理と言えばチャーハンや焼きそばぐらいしか作ったことがなくって、そしてその二品は食材の切り方にあまり気を回さないでいいからこそ簡単なのだ。

「カイ……、下手くそすぎ」

 こういう細かい作業ってほんとに難しい。ぼくの予想だといつかの高級レストランで見たような、綿のようにふわっと美味しそうなキャベツのみじん切りが完成したはずなのに、まな板の上にあるキャベツは、泥みたいにべちゃっと不味そうだった。これはさすがにちょっとな、と思ったぼくは言い訳を探そうとルナの手元を見て、

「おいルナもうそろそろそれッ」

 油鍋の中の異変に気づいてそれを指摘した矢先にコロッケはぼこっと小爆発して、ルナはあわてて火を止めた。油の中身を見て、それから呆然とぼくの顔を見たルナに、

「ほれみろ。やっぱ手伝った方がよかったじゃないか」

「……カイが手伝ったせいで忘れてたの!」

 顔を真っ赤にして言うと、ルナは久々にふくらはぎのツボへ鋭い蹴りを決めてきた。やっぱり、こういうルナが一番ルナらしい。ぼくは大げさに痛がりながらも、なんだか嬉しかった。

 大皿の上には、光を撒き散らしたあとの花火みたいなコロッケとべちゃっとしたキャベツが載っていて、あとで分かったことなんだけど、その上ご飯を炊くのを忘れていた。

「これじゃあ生活していけないね」

 なんて笑いながら、ぼくらはコロッケを頬ばった。見た目は悪かったけどルナの作っていたタネはしっかりと味がついていて美味しかった。キャベツだって、ピエトロドレッシングをかけたらレストランのサラダとあまり変わらない。

 あっという間に食事は終わって、「遠足は家に着くまでが遠足です」というわけじゃないけど、

「食卓は皿を戸棚にしまい終えるまでが食卓です」

 と、ぼくらは最後まで二人でやり遂げたのだった。ちなみに先ほどの言葉はルナではなく、ぼくが発したものである。お腹いっぱいーっと寝転がるルナを、ぼくが無理やり引っ張って台所に立たせたのだ。どうやらルナは、主婦にはあんまり向いていないらしい。まあ、いつもはぼくが家事をして、たまにルナが料理を作ってくれたりしたらそれが理想だなと、ぼくはもはやためらいもなく夢を妄想してしまった。

 夢なら何を妄想したっていいじゃないかと思った。ぼくが皿を洗っている間、布巾ふきんを持って手持無沙汰なルナはぼくのふくらはぎをちょいちょいとつつく。たまにぼくが反撃する。そんな家庭。

「ねえ、カイ、」

 最後のお皿を拭き終えると、ルナが訊ねてきた。ぼくはジャガイモやらニンジンの皮が入った生ごみ袋を、外にあるコンポストに持っていこうとしていた。

「ん?」

 ルナは布巾を畳んだり広げたりしながら、楽しげに笑う。

「やっぱり、なんでもない」

 なんでもないこと多すぎだろ、と笑いながらぼくは外に出る。雨はあがっていて、空には星が溢れんばかりに輝いていた。天の川が、たなびく雲の形を浮き上がらせるくらいの空だった。

「何でもない」

 ぼくは呟く。そこには何かがある。そしてその言葉をきくと、ぼくは思わず――、

 ぼくは首を振る。ピンク色の輪っか――、ぼくは夢の中の、ある一粒を想像してしまいそうになる。頭の中でもそれは許されない。だけど、甘くてとろりとしていて、たまらない一粒。

 コンポストの中の生臭い匂いに頭をつっこんで、よどんだ空気を思い切り吸い込んだ。吐きそうなほどむせてようやく、その雑念をまぎらすことができた。


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