第八話 vehicle (5)
プレーヤーがその動きを止めた後も、頭の中では音が鳴り響き続けているような気がした。
余韻なんてものじゃない。その音楽はぼくらのいるこの場所から、どこか違う世界へ走り去っていっただけなのだ。
「ヴィークルズ、というバンド名は第二自主制作盤の完成によって決定したんだそうだ」
音源を聴き終わった後、その音を別のCDに焼き付ける作業の途中で、七村兄は教えてくれた。
「vehicleという単語は飛行機だったり車だったり、あらゆる『乗り物』という意味を表す。そしてそれは総合的に言うと『媒介物』という意味だ。入れ物。入れ物がなきゃ、僕たちはこの世界に対してなんの行動を起こすこともできない。魂だけふよふよ浮いていても始まらない」
ぼくは心霊とかはあまり信じないくちなんだけど、この周りにたくさんの心霊が浮かんでいるのをふと想像した。部屋の片隅にある『走れメロス』のことがやけに気になる。そこには誰もいないはずなのに、それは誰よりも強く存在している。
「だけど、身体の中に魂がなくても……、それでたとえ動いているとしても、果たしてそれは本当に生きているということになるだろうか。ヴィークルズはそれを表現しようとした。自分の中には魂があるんだという証明を、音楽という形で表現しようとした。それがヴィークルズという名の由来だ。これが、ヴィークルズのはじまりだ」
静かだけど熱っぽい語り口は、やっぱり先輩とよく似ている。グッドデザイン賞でも受賞しそうなスマートな形をしているくせ、その中身は爆弾だったりするような。
七村兄は音源をコピーしたあと、新しく焼き付けたCDではなく、「No.2」と殴り書かれたオリジナルの方を先輩に手渡した。ぼくらが少し驚いていると、七村兄はこう言った。
「僕が惹かれたのは彼らの筆跡じゃなく、彼らの音楽だからね。このCDだって、誰か特定の人には飼われたくないと思ってるはずさ」
ぼくはルナにプレゼントするという目的がなくても、わけもなくこの曲をルナにも聴かせてあげたいと思うようになっていた。ブレーキが失われたようにそう思った。
六時前。自主制作盤を握りしめ、急ぐぼくと先輩と七村の歩調は自然と速くなる。走りたい気分が心を急かすのを感じながら自宅の門をくぐると、
「だいじょぶだいじょぶッ、料理ッてのはねえぇ、腕じゃなく愛情なんだから。不味いって言うようなやつには『じゃあ食わせてやりません』って皿取り下げちゃったらいいんだって」
「えーっ、でもそれで『じゃあ食わない』って言われたら……、」
玄関先で笑うルナと目があう。それにあわせて、こちらに背中を向けていたポニーテールも様子を窺うように振り向いた。
美村香奈はにやーっと笑って、ペットボトルがあったら頭を叩いていただろうというような勢いでルナを小突いた。ルナは慌ててぼくのことを見る。
「おっ、おかえり……」
そのか細い声は、ぼくの心の奥の方を心地よくくすぐった。
「ああ、ただいま」
「ただいまルナちゃん!」と七村がすかさず叫んで、
「お前は帰れ」
「そうよなんであんたがいるのよ。せっかくいい感じに家族っぽいセッティングしてたのにさ、一気にぶち壊しじゃない、ねえ?」
美村香奈に訊かれて、ルナは「あはは」とぎこちなく笑う。あきらかに、ルナは先輩のことを気にしていた。それを美村香奈もなぜか察しているようだった。そのとき、遠くから空が崩落したような音が聞こえる。
「へっへーカナよ、その言葉をお前は後で後悔することになるぜ。ほらミタさん夕立ちきそうですし、はやく渡しましょうよ。ルナちゃん、これは俺からのルナちゃんへの」
「松木ルナ」
ずいと先輩が歩みを進める。ルナは足元を気にし始めたかのようにとつぜん下を向く。美村香奈は冷静にあとずさって、ルナへの通路を開けた。次の雷は何事か空を見上げてしまうほど大きくて、雲は遠くの山々を、舐めとってしまうほどに低く垂れこめていた。
先輩は一枚のCDを差し出した。下を向いているルナにも見えるように。
「一緒に、聴いて」
ぼくもルナを元気づけるように続ける。
「それ、ヴィークルズの自主制作盤なんだ。ルナが久々にこの町に帰ってきてくれたから、その祝いと言っちゃなんだけど、先輩とぼくで何とか手に入れたんだ」「さりげなく俺を抜かすな!」
ルナがCDをしぶしぶ受け取るのを確認すると、
「……三木、プレーヤーか何かある?」
先輩が訊ねてきたのに、ぼくは「ああ、ぼくの部屋にコンポが、」
あります、と口が空回りした。先輩はそれだけ聞くと、ルナの手を引いて玄関に上がりこんだのだ。ぼくはルナのことが何かと心配で仕方がなかった。昨日だってそうだ。不機嫌な表情、手を引かれどこかへ連れ去られるルナ、そして崩れ落ちるルナのイメージ。頭上の雷が、ルナのことを消し去ってしまいそうで嫌だった。
「ちょっと、カイくん、」
玄関に入る手前で美村香奈に呼び止められる。
「……私も入っていい?」
ああ、と軽く応えて急いで階段を上る。正面にあるぼくの部屋の扉は全開で、網戸にしていた窓から涼しい風が強く入り込んで、昨日やっていた夏休み課題のプリントが散らばっていた。先輩はルナの手をぐっと握っている。ルナはぼくを不安そうに一瞬見つめ、
ぼくが階段をのぼりきったその瞬間だった。
コンポの両翼のスピーカーから心臓の最初の鼓動みたいな音が爆発して、ぼくは思わず吹き飛ばされそうになった。
「この世には走りたくなる音楽というものがある」。
七村の家で最初に『ヴィークル』を聴いたとき、ぼくは単純にそう思った。
この音を聴いて走り出さずにいられるか。全身のリミッターが解除されるような感覚。そこに停まっているのがあほらしくなるのだ。ぼくらは手足を動かすことしかできない。だったら動かせばいい。それしかできないのだから――、身体があるうちはそれができるのだから。
ギターがあったらかきならしている。ベースの弦がこの指先に触れたら、地を震わせるあの重低音がたちまち噴き出すだろう。ドラムの有無なんて関係ない、ぼくはこの手で手当り次第に何かを叩き、この脚で地面を踏み鳴らして音を奏でたくなる。走りたくなる。
ぼくはそれを必死でこらえて立ち止まってそれを聴いていた。走り出したらどこへ向かうか分からないからだ。窓を抜け出して屋根を跳躍して骨が折れてもまだ走り出してしまいそうな自分の魂をこらえている。
窓から吹く風が羨ましかった。走ったらこの風みたいに宿題の山とかその他のわずらわしいもの全部何もかも吹き飛ばせそうなのに。屋根を打つ雨粒が羨ましかった。あんな遮二無二なビートをぼくもこの脚で奏でたいと思った。雷のように空を駆け巡りたくなる。一歩一歩をこの世に鳴り響かせたくなる。走りたい、走りたい、走りたい、
――走りたくならない?
爆音の中で先輩の口がそう動いた。全身がむずむずしているのが分かる。七村家での先輩もそうだった。目を見開いて前を見つめて、目の前には壁があるのにそんなことは関係なく走りたくなっているのが分かった。
――走りたくなってこない?
ルナは背中を魚みたいにびくりとさせる。首をぶんぶんと振る。ツインテールが振り乱される。むずむずしているのが分かる。ぼくみたいに、背後にいる美村香奈みたいに――、そして先輩みたいに。だけどルナは首を振り続けるのだ。耳をふさいで首を振っている。
――私は走りたい、松木といっしょに、走りたい
先輩の必死の呼びかけを避けるようにルナはその場でしゃがみこんだ。何か言ったのだろうか。先輩の無表情がいまにも泣きそうなほど崩れ、でもそれを堪えた先輩は、
――中距離じゃなくたっていい。私と一緒に走って
わたしはもう走れないんです。今度はちゃんとルナの声が聞こえた。演奏はアウトロに入っていた。
ランニングでもいいから、
首を振る。ルナは頑なにそれを拒絶する。
お願い。私と走って。
――わたしは、もう走れない
「そうじゃないと、私は陸上を諦めることができない」
先輩が、泣いていた。演奏は終わって、夕立の雨粒がぼくの家を叩き潰そうとするかのような激しい音をたてているのが聞こえた。それしか聞こえなかった。
「私にはまだ、松木ルナが走れないなんて、信じられない」
ルナは、それでも拒絶する。風呂場でぼくの耳をふさいだように、自分の耳をふさいでいる。
受け入れられない現実があった。先輩にも、ルナにも。自分の弱さを受け入れることが本当の強さなんていったけど、その本当の強さってやつは途方もなく難しいことなのだとぼくは思い知った。
ちょっとぐらい走ってやればいいじゃないか。なんてぼくはルナに言うことができない。ルナは明らかに走りたいのだ。じゃないと耳をふさいだりなんかしない。走りたいのに走れないのだ。先輩は言っていた。
――今まで走れてた人が突然走れなくなったときの気持ちを、私は想像できない
でもきっと、その気持ちを先輩は知っているんだと思った。先輩だって走れなくなった人の一人なのだ。先輩はその気持ちを吹き飛ばしたいのだと思った。何かを変えようと、先輩だってあがいている。「いっしょに走って」という言葉がルナを傷つけることなんて、「走りたい」という想いに焦がされて灰になっている。
ぼくは何も手出しできないし、口出しもできなかった。入り込む隙がなかった。ぼくがこの町で七村とぐだぐだ話していたころに起こった、ぼくの全く知らない出来事。そんな出来事を前にして、ぼくが何を言ってやれるだろうかと思った。それほどまでに二人の関係は硬く完成されていて、だけどそれは檻のようで――、
「先輩が陸上を諦めるなんてッ、ぜえええええったいッ、だめです!」
その一撃は、美村香奈の口から放たれた。
「先輩はルナちゃんと走るために陸上を続けてきたんですか? 走ることが好きだから、陸上を続けてきたんじゃないんですか?」
だけど、先輩はびくともしない。
「……『走れメロス』って物語を知っている?」
ひどく無感情な声は、この雨音の中でもまったく異質なもののように大きく響いた。
「メロスは友達が先にいることを信じることができたから、走り続けることができた。でも私は、走ってる途中で友達の死亡通知を受け取った。それでも、走ることができるってわけ」
「私なら走ります。そういうときだからこそむしろ走って走って走りまくってやります。友達のために走って走って走りつくしてやるんです。私が友達なら、そんな先輩の姿を見たいです」
「美村ちゃんに、何が分かるっていうの」
「私には何にも分かりません。二人の関係なんて何もかも」
美村香奈は檻の外にいるからこそ、それを打ち破ることができてしまうのかもしれない。
「ただ私は、先輩に憧れてこの陸上部に入ろうと思ったんです。先輩の走る姿を後ろから見ていてかっこいいって、走るのが好きなんだと思ったからこの部に入ったんです。きっとそうです、いつの間にか私は陸上部の入部届を出してました。そんな先輩が陸上を辞めるなんて私は嫌なんです、絶対に。私は、先輩の走る姿に一目ぼれしたんです。あんな風に走りたいって、」
美村香奈の口の動きはだんだん加速していって、ぴたりと止まったかと思うと突然「どわあ―――――ッ!」と奇声をあげながらぼくの部屋に乱入してぼくをつき飛ばし二人の間に割り込んで、先輩の腕を強引に掴むと、
「走りに行きましょう!」
外が雨なんて忘れているかのように平然と、美村香奈はそう叫んだ。先輩は呆然とした口から何か言葉をつむごうとするが、
「走りに行くんです! 走りたくないんですか? 走りに行きましょう!」
美村香奈は止まらなかった。二人のややこしい関係も雷も雨も、美村香奈を止めることはできなかった。ぼくの横を通りすがる時、美村香奈は「ルナちゃんはあんたに任せた」とぼくの肩を叩いた。二人はどっちゃんがっちゃん階段を下りていき、「おじゃましましたーっ」と気配は雨の音にかき消されてしまった。
あとにはくたくたになったぼくと、床にへしゃげたルナだけが残る。まるで夕立ちのあとの町みたいだ。二人はホントに走りに行ったんだろうか。雨脚は少しだけど、さっきよりはマシになっていた。




