第八話 vehicle (4)
ミタさん、ガチでやっちゃうのかな」
先輩は七村兄の隣に座って、訥々《とつとつ》となにか話しているようだった。まだ、そういう兆しはない。どこぞのおっさんが赤い顔をして演歌を歌っているせいか、二人の会話があまりにも小さすぎるせいなのか、ぼくらには口の動きと仕草で作戦の進捗情報を判断するしかない。
「七村がめずらしく真面目だったからなあ、そこのところはちゃんと汲んでくれると思うけど」
「ああでも、そういや兄貴がミタさんと結婚したら、ミタさんが俺のお義姉ちゃんになるのか……。それはそれでやべえぜおいおいおい」
先輩が身を寄せたりする気配は全くみられない。でもそこにはぼくらが全く知らない先輩と、
「おお、兄貴が反応した」
先輩が、おそらく七村兄の持っていた文庫本についてコメントしたのだろう。すると七村兄は自分の隣に積んでいた本を一冊手に取り、それを先輩に手渡したのだった。そして今二人は本を読みながら、ぽつりぽつりと会話を交わしている。独り言かもしれない。だけどぼくらが会話だと確信したのは、
「……先輩、今笑ってなかったか。ほんのちょっとだけど」
「お、ああ、ずきゅんときた。死ぬかと思った」
もしかしたら先輩の策略かもしれない。だけどたしかに、二人の会話は弾んでいるようだった。ちょっと変わったカップルとして見ることだってできるくらい。七村兄の高い背丈は先輩が長身であることを忘れさせてくれるし、何より七村兄の作っていた堅い隔絶空間に、先輩が何気なく馴染んでいるのだ。二人きりで一つの部屋にいるみたいに。
「……昨日も思ったんだけどさ、ミタさん、なにかあったのか? あの人があんなに行動すんの、俺初めて見たわ。……あれか? 今までずっと女の子の日だったとか?」
あほか。
「昨日先輩ルナのこと見て一気に活動的になっただろ? この作戦も、ルナのためなんだ。先輩がルナに何かプレゼントしたいっていうからさ」
「まじで!」
七村は、とつぜんぼくにかぶりついてきた。
「俺もルナにゃんにプレゼントしたいんだが」
「そ、そっか? ……じゃあ、このCDは三人からのプレゼントということにする?」というのも、ぼくが先輩に付き合ってこんなことをしようと思ったのも、つまりルナへプレゼントを贈りたかったからだった。あまり他言したくはないけど。
「よっしゃああああ、まあ兄貴にゃ悪いが、そういうことにさせてもらうことにしてくれ!」「……やけにはりきってんなあ」
「ったり前だろ? ……そうだな、ルナちゃんの兄であるお前には、はやめに宣言しておくべきかもしれん」
そこで七村は表情筋を引き締め、敵を前にした侍のような威圧感でぼくを見つめた。まるでぼくを「敵」だと、進路を行くために打ち破らなければならない最大の壁だと決断しているような視線で、
「俺は、ルナちゃんと、エッチなことがしたい」
「氷結グレープを持ってきてください誰か」
やっぱりこいつはもうだめだ。いつもならそこで表情を崩しへらへら笑う七村は、しかしぼくを射抜くような視線をいぜんとして保ったままだった。いつもとはちがう。まるでぼくの向こうにその標的が――、ルナがいるかのようだった。
「冗談じゃねえぞ、カイ。俺はお前がシスコンであることをよおく知っている。その上で俺は言っている。……いいか、俺はルナちゃんとエッチなことがしたい。それを世界一強く願っているのはこの俺だという自信もある」
そんな自信持たれても困る、といつものぼくなら呆れ顔のツッコミを返していただろう。だけどその威圧感がぼくの首をしめつけるように喉をふさいでいた。冗談じゃなかった。
「俺がなぜハニートラップを止めようとしたか分かるかカイ。……ルナちゃんが、俺の世界を変えたからだ。俺はルナ様がこの町に光臨してからというもの、毎晩のようにルナちゃんとエッチしたいと思っている。毎日が幸福で満たされている。この世はなんて素晴らしいんだろう。なあ、恋は世界を変えるんだよカイ」
「……お前なあ、そりゃ恋じゃなくて性欲だろ。それに好きな人の兄に『お兄様の妹さんとエッチがしたい』なんて言って、それでその意見が通るとでも?」
「お兄様よ、それはそうかもしれない。だけど俺はこの感情をきれいな言葉で飾りたくないのだ。エロいことをするための回り道が恋ってやつだと思っている俺にとってこれはまさに恋だ。俺はお前の妹さんとエッチなことをするためならどんな回り道だって回ってやる。それが最低条件だと思っている。ルナちゃんが幸せになれるのならなんだってする。……なんだってできそうなんだ。ルナちゃんとエッチなことをするためなら、なんだってしたい。それくらい俺はルナちゃんと、」
「ギャグだよな?」
それ以上は聞いていたくなかった。
「……ギャグかもしれないけどギャグじゃない」
「いや、ギャグだろ」
「たしかに、ギャグだと思われるかもだな。だが、俺の中ではギャグじゃねえ」
ギャグじゃない。それは七村の態度で理解していた。七村は、ギャグみたいに本気なのだ。その表情を見ればわかる。目の前のものを全て斬り裂いていきそうに鋭いその目を見れば。それを分かっていてぼくは、
「……言っていい冗談と、悪い冗談がある。だろ?」
あくまで冗談だと否定した。冗談だと否定したかった。七村の気持ちと――、そして、それに対するぼく自身の気持ちを。ギャグだとせせらわらって手離したかった。遠くから観察して、指をさして「そんなわけないだろう」と
「おねえちゃん、七村」
その力ない声に、ぼくは緊張をつつかれたような気分になる。そこで自分が、おそろしいほどの緊張状態にいたんだということを知る。怒りと焦りと、まるでなにかかけがえのないものをとられるんじゃないかという不安のまじった感情。また、ぼくは失ってしまうのか。
先輩が、ぼくらを呼んでいた。そのすぐ隣で、七村兄が文庫本から顔をあげこちらをちらりと見た。
「おねえちゃん?」
七村兄が訊ねると、
「……あの人私の兄なんだけど、そう呼んでくれって強制するから。家ではいつもスカート。そういう趣味があるみたいで」
「ああ」
ああ、じゃねえよ七村兄。納得するな。
「CD、とりあえず聴かせてもらうことになったから」
そう先輩は言い残して、二人は玄関へ入っていった。どういうマジックを使ったのかは分からない。とりあえずぼくと七村もそれに続いて家へ入った。できるだけ別々に。話はしなかった。七村は声をかけたがっていたけど、ぼくがそれを故意に無視し続けた。
そういう気分になれなかった。何かが怖くて。
*
七村兄の部屋は、その一角にホコリをかぶってほのかに白んだ本棚があるくらいで、その他は必要最低限の家具が置いてあるだけだった。壁に埋め込まれた収納の中をのぞいてみて、「プレーヤーどこやった」と七村兄が訊ねると、七村は「あっ、俺ちょい借りてたんだわ」と二人で一緒に部屋を出ていった。
「……いったいどうやって話を取り付けたんですか?」
って先輩はどこいったんだ、と視線を部屋にめぐらしてみると、先輩は本棚をあさくって表紙を見てはまた仕舞い込み、まるで自分ちの冷蔵庫を「なんか食いもんないかなあ」と物色してるみたいだった。「っておい、なにやってるんすか」
「エロい本ないかなあと思って」
でもぼくにはそんなギャグに付き合う余裕はなかった。焦燥感が、はやくプレゼントを渡したいとぼくの心を急かしたてる。
「どうやったんですか、別にハニートラップも何も使ってませんでしたよね?」
「ハニートラップっていうのは、別に露骨に行動しなくてもいい。私が女で、ちょっとおめかししたら、それだけで十分。せめて見栄えだけでも整えていたら、タイプであろうがなかろうが、少々のイメージアップを図れる。もっとエロイことを期待していた?」
そりゃあ流れからするとものすごいことをするのかと思っていたが期待していたわけではない。というと言い訳になる。
「……その上で、気が合った。たまたま……えろいほうの意味じゃない、偶然って意味ね」そこまでエロイことばっか考えてないよ。「知ってる本を読んでいたから、その話題からバンドの話に移って、あとは三木の考えた会話ルートを通っただけ。ブリキの初期楽曲を聴いて、その原点にもしかしたらヴィークルズの影響もあるんじゃないかって指摘したら、あっちの方から『すごい音源を聴かせてあげる』って」
ぼくはなんだかほっとした。ここまで来るのに、ずいぶんな遠回りをしてしまった気がする。
「はじめからストレートに頼んだ方がよかったかもしれませんね。自分のバンドの音源が聴きたいんじゃないのかよって、気分損ねるかと思ってましたよ」
「もしそういう人だったら、エロに頼るしかなかったかもしれない。あの人は音楽が好きで、別に自分のことはどうでもいい人なんだと思う。それに本当に音楽が好きなら、自分の好きな音楽は広めたいって思うはず」
その通りだと思った。CD不況や最近よくあるバンドの解散やメンバーの脱退などの暗いニュースばかり耳にして、穿った見方をしていたのかもしれない。
「でも、どういうところで、あの人が音楽好きだって分かったんですか?」
「……あの人が読んでた、この本」
そういって先輩は、七村兄が放置していった文庫本の山から、一冊の本を手に取って開いた。枯葉のような色をして今にも崩れそうな本の表紙には、薄くなった印字の上に『走れメロス』と黒いペンの文字が重ねられていた。
あまり難しい本を読まないぼくだったけど、『走れメロス』は小説以外にも絵本として売り出されていたりするから、あやふやだけどそのあらすじを組み立てることはできそうな気がした。たしか――友達の処刑を止めるために、メロスがどんな困難にあったって走り続ける、って流れの物語だったはず。
でもメロスと音楽に、何の繋がりがあるんだろうか。訊こうとしたけどその直前に七村兄弟が部屋に戻ってきた。二人で橋を架けるように、存外巨大なプレーヤーを運びながら。それをやっとのことでタンスの上へ置くと、七村兄は休む間もなくギターケースのサイドポケットからCDケースを取りだす。製品とかそういう次元じゃない装丁だ。七村兄がプレーヤーの隣へ丁寧に置いた空のケースには、『No.2』という乱暴なインクペンの文字がかすれて今にも消えそうだった。第二自主制作盤。この盤を叩き台に、ヴィークルズはインディーズでのCDデビューを果たす。
ぼくは静かに興奮していた。パチン、とCDをプレーヤーに収めるときの音で、ぼくの心はいっせいにスピーカーへと注がれる。ルナには悪いけど、一足お先に聴かせてもらおう。ぼくだってヴィークルズの一ファンなのだ。七村兄は何も口にせずに再生ボタンを押す。ディスクがすれあうような音をたてて回りはじめ、再生時間が時を打って、次の瞬間それは始まった。
*
再生時間、十二分五十一秒。
CDがシュルシュルと紐を解くように回転をゆるめはじめる。それは唐突だった。
「これが、ヴィークルズの原点になる音源。タイトルは『ヴィークル』」
七村兄が、目を閉じたまま言う。
ぼくはすぐ隣から、あえぐような呼吸がもれるのを聞いた。




