第八話 vehicle (3)
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「ミタさん……、」
玄関へ出てきた七村は、ぼくの横に立っている先輩の姿をみると急にきりっと真剣な表情になった。それは幕末の剣豪を思わせるような精悍な顔立ちで、そこらにいる女の子だったら一撃で胸を居合抜かれそうなものだ。常時その表情だったらモテたのになあ。
だけど七村がその表情をするときは、往々にして性格の方に問題が生じるのだった。たとえばバストについて語っている時も、こいつはこんな表情をしていた。そして七村は、倒幕について作戦を練る志士のような表情で、
「ミタさん、どうやら俺は、すぐ近くに女神がいることを……、いや、すぐ近くにいたからこそ、それを女神と気づけなかったのしょう。ああ、俺は遠くの風景しか見えていなかった。いつも遠くばかり見ていた。……でも、ほんとうの幸せはすぐ近くに」
「美村ちゃんの真似」
セーラー服に機関銃、並みのミスマッチが逆に美しかった。いつもは荒廃した街を思わせるような雰囲気を漂わせている先輩だけど、今日は都会を闊歩する大人の女性みたいなファッションで――、そしてそんな先輩は美村香奈の真似をしたのだった。
例のごとくご想像にお任せしたいところだが、ちなみに先輩は「氷結グレープ」という飲料の入ったペットボトルを持ってきていた、ということを心に留めておいてほしい。
「いやあ、しっかしこんな女性におねだりされたらなあ……、さすがのあの兄貴だって、ひとたまりもないっすよ!」
世界のアイドルを見つくしてきた七村が言うんだったら間違いないのだろう。七村の部屋にいると、下は十三歳、上は二十五歳までの美少女の視線が、銀行の地下金庫を守る赤外線センサーみたいに張り巡らされていて何だか落ち着かない。壁はおろか天井にだって水着姿や浴衣姿のポスターが貼ってあるのだ。さすがに床にはカーペットが敷いてあるけど、七村が床にポスターを張らないのは「そこにカーペットが敷いてあるから」ではなく、「美少女を視線の下に置くなんて、そりゃ最低最悪の男じゃねえか。俺はなあ、高みから見下ろされたいんだよ。そして見上げていたいのさ」という理由によるものだ。
そんな中でも先輩は、相変わらずのノーリアクションだった。
作戦概要は七村にも知らせてある。簡単にいうと、先輩によるハニートラップを七村兄にしかけて、ヴィークルズの幻の自主制作盤を上手いことゲットしよう、という作戦だ。
「たしかに、フツーに『ちょうだい』って言っても、たぶんくれないだろうなあ兄貴は」
「だろ?」
「……でもさ、ハニートラップって、大マジでやるのか?」
通話口のむこうで、七村は珍しく意味を濁したようなことを言った。
「いや、ぼくも最初はギャグだったんだけどさ。先輩は『それが一番確実な方法かも』だって」
ほへえ、と七村はたぶん受話器を握りしめながら何か妄想していたんだと思う。「まあ、バーベキューの件は言っとくわよん」と、ぼくらの通話はそこで終わったのだった。
バーベキュー。つまり今日の昼に開かれる、七村兄の帰郷パーティーのことだ。このイベントは七村一家だけでなく、近所の人たちも七村家の庭に集まって肉を奪い合う、毎年恒例の行事なのだ。今回はそれに、ぼくと先輩も参加させてもらうことになった。なんてったってぼくたちは、七村兄の所属するバンドの大ファンなのだ――という設定で。実際はそんなことはなく、ぼくは動画サイトでライブ映像を一回見たことがあるんだけど、どんな曲だったかあんまり記憶には残っていない。
まあその点についてはハニートラップでカバーすることにして、そして問題はその「ハニートラップ」の効力にあった。
「ふーん。七村兄の好きなタイプって、先輩みたいな大人っぽい感じなんだ?」
ぼくは小学校のとき一緒に登下校していた、七村兄の印象を頭に浮かべながら訊ねる。七村兄は、たしか小学校の時から常時真剣な表情を崩さないような人だった気がする。七村家車庫前で登校班が揃うのを待つ班長――七村兄は、思えば二宮金次郎と雰囲気が似通っていた。
「いや、正直兄貴の考えてることはさっぱり分からん」
七村は平然と言ってのけた。先輩が氷結グレープを威圧的にひと口飲むのを見て、
「いやいや、でもですよ、そこはタイプどうこうよりも、先輩の男遊びスキルによるかもしれないっす。というのも、カイは知ってるよな。……兄貴って、めちゃくちゃ硬派なんすよ。兄貴が女子と話してるところなんて俺見たことないぜってくらい硬派。しかし硬派っていうのはですね、今にも暴発しそうだから、カタいんだと思うんです俺的には。つまり……、やつはちょっと優しくされたらどぴゅっと」
「万事下の事情の通りいくと思うなよ」と言いながらも、ぼくは案外その通りいくかも知れないと思い、
「かたいのを優しくほぐすのは得意」
先輩の起伏のない口調は妙に頼もしかった。七村は「おおっ」と感嘆の声をあげ、
「……そういえば先輩って、男遊びの経験とかあるんすか?」
「おいおい、」
うわまたデリカシーのないことを、とぼくが思っていた矢先、先輩は床を這い這い七村にずいと迫っていって
「七村……、いい?」
その声はいつもとほとんど変わりないのに、なぜか見ているこちらまでもが、熱い吐息を頬に吹きかけられているような気分になった。七村の声は面白いほど上ずって、
「いいって……なっ、なにが、っすか」
「いい……?」
先輩は迫って、七村の目をじっとみつめているだけだった。いや、ぼくの向かいに座る二人は、机の下で指を触れ合っている。先輩は高い身長をかがめて、七村の胸に体重を預けるみたいに上目づかいで見つめていた。それはまるで、男を誘う淫魔みたいで、
「うおおおおおおもちろん! 『いい』ですとも!」
そうして七村は先輩に誘われるがまま立ち上がると、「うへへえ」とか言いながら腕を引かれて部屋から出て行った。
――だがその数秒後、玄関で氷結グレープのダメージを受けたときのような七村の悲鳴が廊下から聞こえてきて、七村はげっそりした顔で脳天を押さえて、先輩は言うまでもないが無表情で部屋に帰ってきたのだった。
七村はのちに語る。先輩はすごかった、と。あの瞬間、先輩は何気に七村の肘をやわらかい胸に埋めさせていたのだという。そして何と言っても女性が近寄ってきたときの匂いは素晴らしく、嫌なことをきれいさっぱり忘れられたらしい。そしてあれを体験できなかったぼくを散々バカにしていたので、あまり後悔はしていないようだった。たしかに、あとになってぼくはちょっと羨ましく思った。
*
「兄貴、こちらは……小学んとき一緒だったから憶えてるだろ? 俺の愛人」
「友人な」
「そう、友人の三木カイくん」
七村の兄貴は、先輩とすこし雰囲気が似ていた。ぼくらがオープニングで漫才じみたことをやってもまったく笑ってくれず、「ああ」と気の抜けたような返事をするだけだった。
「そしてこちらは俺の恋人」
氷結グレープが七村の首を一刀両断する直前でぴたりと停止した。
「……俺の、えーと、陸上部の先輩で、はい、ミタさんです」
「ああ、ども」
帰宅してそうそう人物を紹介された七村兄は、突然のことに困惑している風でもなく、どちらかといえばぼくらのことなど興味がないようなリアクションの薄さだった。予想以上の強敵かもしれない。七村は兄のことを硬いと表現していたが、むしろ柔らかすぎて空気に溶け込み、存在感が極限まで希薄になっているような気さえする。
「兄貴よろこんでくれ、この二人はなあ、」
七村の目配せでぼくは
「そうなんです! ぼくたち実は『錻力の銃に装填された星形の弾丸は打ち出せない』の大っファンなんですよ!」
心にもないことをものすごく高いテンションで言ってみた。ちなみに『錻力の銃に装填された星形の銃は打ち出せない』とは七村兄がギターボーカルを担当しているバンドの名前だ。正直ものすごく長くてくどくて何ともいえないセンスだと思うんだけど、ファンの心理を考えると、そんな変な長い名前だって略さず言いたくなるものなのだろう。正式名称を長々と述べたのは、そういう理由もあってのことだった。
だけど七村の兄は、
「……ああ。ども」
――いや、戦いはまだ始まったばかりだ。これからが本当の闘いなのだ。
庭の方から「おぉい、にいちゃんら、そろそろ肉焼くぞぉ」とおっさんの声が聞こえてきて、どうやらバーベキューの準備が整ったようだった。
そう、たとえば合コンなんてものは食事しながらやるものだ――行ったことないけど。一緒に食事をしながらグダグダ喋っていくなかで、仲をずんずんと深めていってそして勝利を勝ち取るのだ。
なんて意気込んでいざバーベキューが始まってみると、七村兄はいっそう無口になった。独特のオーラが兄の周りに隔絶された空間を作り出している。庭はまるで汗と酒臭い宴の様相なのに、七村兄はまるでそこが自分の部屋であるかのように好き勝手にくつろぎ、好きな時に食べ、そして文庫本を読むのだった。キングオブマイペースといえばいいのだろうか、
「おいおいおいおい、七村の兄ちゃん強敵すぎるだろ……、なんか悟り開いてるんじゃないのか」
「大学で何があったんだろうな。悟り具合に磨きがかかってるぜ……」
とはいいつつも、ぼくらはハニートラップのことを口に出さない。やはりハニートラップは先輩の心境やそのあとの処理のことも慮って、最終手段ということに決めていたのだった。ちなみに架空ファンであるぼくの猛烈なアタックは、全く効いていないどころかまるで手ごたえがなく、兄が口を開いたことといえば
「ありがとう。これからもファンでいてくださったらありがたい」
そんな平坦な口調の感謝ばかりだった。
見透かされてしまっている――ぼくが最初に抱いた印象はこうだった。こんなウソをついている自分がみじめになるくらい、七村兄の口調にはどこか諦観がにじみ出ていて、ぼくはひたすら空拳をふるっているような空しい気分にさせられたのだった。
「……どうします先輩、」
ぼくは最終手段を繰り出すかどうか、先輩に訊ねてみようとした。企画を立てたのはぼくだけど、ウソをついてみてそのいたたまれなさについ気が引けてしまった。先輩は七村の兄を遠目に観察しながら、脂のしたたる牛肉を恐ろしいほどの勢いで平らげている。その食いっぷりに、おばさんたちから「あんたこれも食べな」「おばちゃんらもうお腹いっぱい」「ほらこれも」と紙皿にこんもり乗せられるほどの気持ちいい食いっぷり。なんだか、こっちも悟りを開いている。
「……よくやってくれた」
先輩は口にたっぷり含んだ肉を炭酸飲料で流し込むと、七村兄を見たまま言った。ぼくに言ってくれたのか。
「ある程度、あの人の性格は分かった」
「使うんですか、」
最終手段を。例によって美少女の味方である七村氏は、ハニートラップ作戦の行使についてこんなコメントを述べておられた。「さっき先輩が俺にしかけたみたいな、ほんのギャグなら使ってもいいとは思うんだよ、」と前に付け加えた上で、
――「ハニー」の存在は人生を大きく変えるもんだ。それを遊び半分の冗談で繰り出すのは、あまり喜ばしいことじゃない。兄貴を誘うのは、先輩にとって兄貴が「ダーリン」になってほしいと思えるようになってからか、それか先輩の目的がそんなことどうでもよくなるくらい大きなものである場合のみにしてください!
その意見が作戦自体に大きな欠点があることを証明して、それからぼくらは「ブリキ」の音源を兄貴が帰宅する直前まで聴きこみ、むりやりにでもその音楽のいいところを探そうとした。そして、その結果がこのザマなのだった。
空になった紙皿が椅子にカランと置かれ、先輩は気だるげに立ち上がる。
「ミタさん、」
七村がその背に小声で話しかけた。
「……ミタさんは、兄貴の心を軽く見てるってわけじゃないん、ですよね?」
今にも敬語が破たんしてしまいそうな、威圧感のある表情だった。先輩は振り返る。
「止めたかったら、止めてもいい」
その言葉には、起伏がないからこその重みがあった。ぼくらの行動を無理やり封じる文鎮のような重みは、ぼくらの頭の中にすさまじい意思をねじこんできた。
――止められるものなら。




