第八話 vehicle (2)
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本日は快晴なり。というと爽やかな気がしてくるもんだけど、夏の快晴は地獄である。
――そして、本日も見事な快晴であった。
うちのリビング、というか居間にはクーラーなどという文明の利器が存在しない。部屋にある窓という窓を全て開け放って、できるなら服なんて着たくないんだけどそこは人間の恥というシステムがかろうじてぼくの行動を抑制してくれている。それに対処するにはできるだけ布地面積の少ないものを着ようと思い、今日は半パンタンクトップで過ごすことにした。
なんて、ぼくの服装なんてどうだっていいのだ。
「カイ、今日はずっとヒマなの?」
さっきから雑音ばっかり立てているラジオのチューニングをいじりながら、ルナは清楚だけどけっこう露出の多い――なんと、ワンピース姿だった。
「ああーとねえ……、今日はー、ちょっと外に出る用事があるんだ」
ぼくの言葉はぼやぼやしていておぼつかない。そのワンピースは涼しそうな薄い布の――、肩紐は細くて、普段は見えない白い肩がつるりとむきだしになっている。さっき日焼け止めを塗っていた白い肩。チューニングが合ってくると、ラジオは砂嵐の向こうから天気予報を伝え始めた。
「じゃあ、この家にはいない?」
「ああでも、すぐ……、夕方には帰ってくるつもりだからさ」
ルナはこちらを振り向くと、「うん、夕方には帰ってきてね」と楽しそうに笑った。髪はまだ結んでいない。黒いのになぜか透明感のある髪の流れがどこか幻想的で、ぼくはどうしようもなくドキドキしてしまう。見とれていたことに気づき、ぼくはとっさに窓の外を見た。
「今日はカナちゃんと遊ぶから、わたしもこの家にいないの。昼からはここにいるけど」
「ああ、そうだったんだ」
「カイはどこにいくの? 七村くんの家?」
「……まあ、そんなとこ。朝から夕方までずーっと七村とデート」
ルナは子どもがはしゃぐみたいに笑うと、櫛とヘアリボンを手にぼくの目の前に体育座りした。
別になんでもないおしゃべりをしながら、ぼくは今日もルナの髪を結ぶ。ルナは手鏡で自分とぼくの表情を映しながら、ラジオでやってる天気の話題に口を出した。「昨日も夕立ちがくるとか言ってなかった?」なんて何でもないことを。ぼくはそれに返す。そういや今年は夕立ち見てないよなあ。雷ってなんだかワクワクしないか。
でも頭の中ではそんなことを考えているわけはなくて、ぼくはルナを後ろから抱きしめたいような衝動に襲われ続けていた。髪の匂いに顔を埋めたい、なんて恐ろしい考えがどうしても止められなかった。
それ分かる分かる、と鏡の中のルナも笑ってぼくも笑う。鏡の中でふと目が合って、一瞬変な沈黙が流れた。ノイズまじりのラジオの音と、ノイズもどきの蝉の声。どこかでトラックがやかましいクラクションを鳴らすのが聞こえた。
それはどうしようもなく、もどかしい沈黙だった。
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七村の兄の所属しているバンドが、目的のバンド――vehiclesの結成初期から一緒のライブに出るような仲なのだと聞いたのは去年のことだった。雪が降ってたから、冬のことだったと思う。ぼくがその話に食いつくと、七村は
「そんなことよりこの胸だよ、大きさじゃない、大事なのは形そしてその質感、ほらこの二人を比較してみると……、肌の色の違いだけで、こんなにもやわらかそうに見えてくる」
とグラビアアイドルのバストについて語り始めたので詳しい情報は聞きだせなかったが、とりあえず七村の兄が「それ」を持っているということは確認済みである。
「それ」――すなわちぼくと先輩が狙っているのは、ヴィークルズの幻の自主制作盤であった。
ルナの好きなもの、と訊かれたとき、ぼくが真っ先に思い浮かべたのが音楽だった。というのも、その他の趣味についてはあまり知らないからなんだけど。たとえば味覚の趣味なんて、とうてい予想できそうもない。
「ルナはね、ちょっと洒落てるバンドが好きなんです」
ぼくが言うと、先輩は「オシャレなバンド」と呟き、「ファッションに気を遣っているってこと?」とよく分からないことを言ったので、
「バンドってほら……、音楽ですよ、楽器を持った人が集まって、ひとつの楽曲を演奏するんです。ルナはロックバンドが好きなんですよね」
ぼくは生まれて初めて「バンド」という語を解説した。まあでも分からない人には分からないのかもしれない。解説して見せてから先輩は「ああ」と納得したような声をあげて、
「東京タワーを照準に腰を振って、『東京タワーをレイ」
「近からずとも遠からずってところですかね」
顔面白塗り金髪怪人のギターに合わせて獅子舞みたいに髪を振り乱しながらながらギャアアアと叫び狂うルナはいくらなんでもぼくだって嫌だ。でも場合によってはそういうこともあり得るのかもしれない。もしそうだったらどうしようとぼくはちょっとの間本気で悩んだ。
ちなみにルナの好きなヴィークルズというバンドは、ヘヴィメタルのような激しい音楽を演奏するグループではない。どちらかというと静謐感の滲んだ渋いサウンドを、巧みな演奏技術のアレンジで聴かせるタイプのロックバンドだ。楽曲によって違いはあるけど、ぼくが聴く限りではそのような感じだと思う。
一応ここまでの情報を先輩に与えると、
「でも、なんでこんな質問を? てかルナと何か知り合いなんですか」
昨日練習が終わってからの行動のこともあって、ぼくは気になっていたことを訊ねてみた。先輩は少しのあいだ口を閉ざしたままでいて、ぼくが「ああ、別に嫌だったら言わなくても」なんて類の言葉を継ごうとする寸前に、
「まだ二つ目の質問があるから、それについては答えておくことにする」
あくまでのんびりとした口調をたたえたまま、そう言った。
「……松木ルナが中距離走者だったってことは、知っている?」
「ああ、はい」昨日の晩に聞いた話だからもちろん憶えている。
「みんなには言ってないかもしれないけど……、私も、中距離走者」
そして先輩は、顔を出し始めた陽射しの中に足を踏み出しながら言った。
「簡単にいえば好敵手だった。……私と、松木ルナは」
そのあとのことは、少し予想がついた。昨日先生から聞いたのだった。ルナは陸上の練習中に倒れた――つまり「走れなくなった」のだと。
それだけ聞けば十分か、というふうに先輩は振り返ってぼくの顔を見る。そのときも変わらず無表情だったけど、ぼくにはなぜか、そこに深い深い悲痛が宿っているような気がした。
「二つ目の質問、いい?」
先輩の声に、ぼくは思わずうなずく。
「……松木ルナは、ほんとうに、もう走れない?」
やっぱりそうだ。先輩だってそれを知っている。だとしたらやはり、先生の言っていたことは本当なのだろう。でもそれを受け入れたくないという気持ちは、ぼくの心とすこし似ていた。
「やっぱりルナ、身体の調子が悪いんですか?」
「え?」と先輩が小首をかしげた。予想していた回答が返ってこなくて、床に突然穴が開いたような表情だった。
「ぼくとルナ、……いろいろ事情があって、しばらく離れ離れだったんです。だからぼくも、ルナの状況がよく分からなくて」
親父が話を切り出してきたときとはもう違う。今なら、今ならその事実に真正面からぶつかれると思った。
「詳しく訊かせてくれませんか? ぼくはルナのことが知りたいんです。どんなことでもいいです。ルナについて、知ってることならなんでも」
先輩はいろいろなものを無理やり押し付けられたような様子で、だけど頷いてくれた。
「体調のことについては、私にもそれしか分からない。もう走れない、ということしか。いろいろ、調べてはみた。どうやら足の故障のようなものではなく、……病気らしい」
「病気……」故障と病気。ぼくが期待していたのは、言うまでもない。でも、やっぱりという感はあった。錆びたにおいのする鉄の塊を飲めと言われたようなものだった。
「おねえちゃんも、松木ルナのことが好き?」
「……そりゃあもう。でも、難しいですよねこういうのって。いくら好きでも、相手の気持ちはさっぱり分からないし」
「分からないから、うまく動けない?」
うなずこうとして、いや首をふろうとしたのだろうか、動作に一瞬迷って
「慎重にはなってしまいますよね。自分のしたいことをしたいけど、それが相手のためになるかどうかとか考えると」ってなんでぼくが質問に答えてるんだ。「先輩はどうですか? 相応の分の発言は漏らしたと思いますけど」
「おねえちゃんの心境なんて割とどうでもいい。雑誌の後ろから二番目に載ってるやけに難解なSF設定がついてるエロマンガ同然」喩えがひどい。「だから私も、それ相応のどうでもいい心境を吐かせて」
先輩は青くくっきりした空を切れ目の中身に映して、頭の中のごちゃごちゃをまとめる時間を空けてから、
「信じたくないことって、あるでしょ。受け入れたくないものって。私は松木ルナがもう本当に走れないのか、昨日問いただした。それを訊かずにはいられなかった。でも松木ルナが『もう走れない』って言っても、私はそれを信じたくなかった。……だから、最後に一緒に、もう一度だけ走ってって頼んだ。でも松木ルナはそれを断った。『ごめんなさい』って」
その青い目のむこうに何を思い浮かべているのだろうか。ぼくはふと知りたくなった。
「先輩が走らなくなったのは、ルナが走れなくなったから、なんですか?」
「走りたくなくなった。地面が、ふっと消えた感じ。……でも、一番苦しいのは松木ルナ。今まで走れてた人が突然走れなくなったときの気持ちを、私は想像できない。だから私は考えてみた。どうしたらいいかって。それで、思いついた。相手の気持ちが分からない時は、プレゼントを贈るのが一番だって」
――それが、私が松木ルナにできる最後のこと。
先輩は言って、スポーツドリンクを飲んだ。先輩が飲み物を飲むときは、いつも何かを押し流しているときだ。洗い立ての陶器のような先輩の喉は、しばらくの間鳴り止まなかった。




