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第七話 帰宅

 その夜、ルナはなぜか不機嫌だった。

 不機嫌とはいっても、レストランのときのような乱暴な不機嫌ではなく、どこか静かな不機嫌だ。「不機嫌」じゃなくて、「元気がない」といった方がいいのかもしれないけど、その中間地点を表す言葉があれば、それがちょうどいい表現だと思う。

「……やっぱこれ、不味いんだろ」

 カレーもどきは残り一杯分だけだった。その最後の一杯を、昨日よほど気に入っていたのでルナの皿へ山のように盛ってあげたんだけど、

 ルナは首を振って、山にスプーンを突き刺したままそれを口の中に運ぼうとしない。

「ちょっと、食欲がないだけだから」

 先生の言っていたことがふと頭をよぎった。「練習中に倒れた」という話。いつも通りの白い肌が、いっそう蒼くなったように目に映るけど、真実を確かめようとはもう思わなかった。

「じゃあ半分もらってやるよ」

「でもカイ……、これ嫌いじゃなかったの?」

「悟りをひらいたのさ。トマトジュースカレー教。味蕾みらい滅却すればトマトジュースカレーもまた美味うましってね」

味蕾みらいが滅却させられるほど不味いんだ」

 とため息のようなコメントをしたあと、重々しく口を開いて「じゃあ、お願い」と皿をこちらへよこした。笑顔は浮かべてくれなかった。部活のときと逆の立場になっている気がする。熱心に走り方を教えてくれるルナに対し、生返事ばかり返していたぼくのような。

「あっ、そうだ! 風呂あがってからでいいからさ、今日言ってた筋トレ教えてくれないか? ぼくの上腕二頭筋がはやく成長したいと唸り声をあげている」

「……今日はごめん。明日でいい?」

「あっ、そうか……しんどいのか? じゃあー、皿とかも全部洗っとくからさ、かまわず風呂入ってはやく寝て、ああ上腕二頭筋は今待機状態に入ったから、明日で全然オーケー……」

 まるで逆さの状態だ。昼のルナはこんな気持ちだったのか、とぼくは自分の皿にルナのカレーもどきを半分よそう。

「やっぱ全部いらない、」

 とルナは立ち上がり、「おふろ」とだけ言い残して居間から去っていった。ぼくは心配になるけど、その心配を表には出さないようにしようと決める。そういえば、練習のあとルナはミタ先輩に連れ去られていた。そのときに何かあったのだろうか。などと勘ぐってみるけど、ぼくはそこのところを知ろうとはもう思わない。

 ぼくは自分ができることだけを考えればいい。

 でも、ぼくができることっていったい何なんだろうか。

 やっぱり、ある程度は知っとかないと、その上でぼくが何をすればいいのかなんて分からないんじゃないのか。

 いや、何も知らないでいい。ぼくはなんでもできるように、この弱さを強くするだけだ。いつかそれが役に立つときがくるはず。そう信じて、口の中で生臭く広がるカレーもどきの風味をガマンして食べ続けた。福神漬けを注いでもガラムマサラを加えてみても隠すことのできない強烈な不味さ。どうなってやがるんだこの食品は。

 脱衣所の戸が、立てつけ悪く軋みながら閉まる音をきいて、数分も経たないときのことだった。網戸の向こうの庭の方から、土を踏み潰す音がエンジン音とあわせて侵入してきたのをぼくは聞き逃さなかった。

 ――いつもこの時間になったら聞こえてくる音。だけどルナが来てからの三日間、この音が聞こえてくることはなかった。だってその音を立てる人物はこの一週間旅行がてらの野菜研究に行ってるはずで、

 ばたん、と音をたてて何かが閉まった。エンジン音は、止んでいた。

 ぼくは立ち上がる。意識せずに立ち上がっていた。とりあえず玄関に出た。玄関の灯りをつけた。

 脱衣所の戸は閉まっている。その向こうがどうなっているかは見ることができない。水の音が聞こえ始めた。タイルにお湯がぶちまけられるのが頭の中に再生された。ルナはたぶん気づいていない。気づくはずがない。お湯は繰り返しタイルにぶちまけられる。

 さっきまで続いていた足音が、玄関のドアの前で「ざっ」と音をたてた。熊のようなシルエットが戸の向こうに、おりの中に入れられたみたいにあって、

「大黒柱がログインしましたーっと」

 低い声と共に戸が開く。ぼくとちがってガタイのいい身体が、檻から解き放たれてぼくの目に映る。 

 お湯が盛大にタイルの上へぶちまけられる。それを最後に、その音は止んだ。

「はっはっはっ、ちょっと忘れ物しちゃってなあ」

 親父だった。

「ちょっと……、何で帰ってきたんだよ」

「だから、忘れ物っていっただろうが」

 とりあえず要件の詳細を訊かずに、この家へ入らせるわけにはいかなかった。ルナの履物はちゃんと靴箱の奥に隠してある。

「忘れ物ってなんだよ」

 靴を脱ぎにかかっているその動作を停止させるように迫りながら言う。だけど親父がぼくの心に気遣うわけもなく、

「ちょっとした書類さ」

 平然とぼくの隣を通って階段の方へ向かった。階段の方――つまりそれは家の廊下の、脱衣所へ続く方面ということで、

「ぼくが取りに行くから親父は車のところで待ってろって」

 慌てて言うぼくに反して、親父はのんびりとこちらを向く。

「おお、トマトジュースカレーのやさしい香り。……あまりの美味さに親孝行したくなったか。

 じゃあ、たまには甘えるとするか。俺の部屋の、たぶん本棚にまぎれこんでると思うんだが、紙袋があるから取ってきてくれ。じゃあー俺はその間にうがい手洗いと」

「うぎゃあああああ! 親孝行めんどくさいやっぱり自分で取りに行けバーカ!」

「ひどいな……父さんかなり傷ついたんだが」

 ごめんと思いつつも、これはどうしようもないことなのだ。階段の電気をつけ、のぼりかける親父をぼくはずっと監視していた。段の一番下でその後ろ姿をじっとにらんでいると、ふと親父が言う。

「風呂は今から入るのかー?」

「は?」ぼくは何でもないように声を取り繕う。

「いや、電気ついてるからさ」

「ああ、今入ろうとしてたとこ……」

 そうか、と親父は自分の部屋に入っていく。問題はこれからだった。さっきの言動で思い出したんだけど、親父は家に帰ったら絶対に「手洗い・うがい」の習慣を欠かさない。むかしこれを怠ったせいでインフルエンザにかかってしまい、それからというもの家に帰ったら喉をブラシで磨き上げたくなるような衝動に襲われるそうなのだ。

 そして、その「手洗い・うがい」を行うためには、絶対に脱衣所にある洗面台を使わなければならない。

「あったあった」と二階から聞こえた。

 浴室の方からは何も聞こえてこない。ぼくはとりあえず脱衣所の戸の前へ立つ。その隙間からは光がもれだしていて、だけど中身は分からない。

 階段を踏む単調な振動が伝わってきて、

 ぼくは戸に手をかけた。中身のことを思った。どうしたらいいのか分からなかった。「今入ろうとしてたとこ」ととっさに口から出てしまったのだ。それ以外には何も考えていなかった。親父の姿が目に入ったところで、ぼくは思わず戸を開けて脱衣所へ侵入してしまう。なにやってるんだぼくは。とっさに鍵をかける。親父が戸を開けようとして、でもそれは鍵によってはばまれた。

「おいカイ? なんで鍵なんかかけてるんだ?」

 ノック音がとてつもなく怖くて、ぼくは洗面台の鏡を見つめた。どうすればいい、どうすればいいんだ。鏡の中の自分はまぬけに無表情で、何も勇気づけてはくれなかった。風呂場の方でぱちゃっと水が跳ねたような音が聞こえてきた。

「開けろーって、カイ、父さん急いでるんだよ、早くしなければならぬ、おい」

「ちょ、ちょっと待ってって、息子が着替え中なんだって」何いってるんだぼくは。

「今さら何言ってるんだお前は、そんなこと父さん気にしないから、はやくここを開けろ」

「ちがうって、ぼくが気にするんだって、」

「おい、いい加減にしろ……お前は女の子か、娘になっちまったのか。まあ父さんはそっちの方が嬉しいけどな」

「……そ、そうっ、そうなんだよ! なんかさ、最近、なんか、胸が大きくなってきてさ……、実は娘だったっていうアレなんだよ、たぶん」

 神社の茂みから音が聞こえてきたときも思ったけど、焦ってる時って口と頭の神経が繋がっていない。不自然な沈黙のあと、

「どういうアレなのかはまったく分からんが……、じゃあまあ、とっとと風呂にダイブするがいいさ。俺の手の雑菌が全身に回ってしまう前にっ、はやくしろ!」

 猶予が課されたことを実感すると、ぼくは洗面台の上に手をついて、再び鏡の中の自分をにらみつけた。集中する。なにをすればいいのか。どうすればいいのか。考えようとしても思考が上手くまとまらなくて、ぼくは思い切り台の角に頭をぶつけたくなる。

「どうしよう……」

 危機が押し寄せてきた時どう対処できるかで、ヒトの強さは決まる、とどこかの誰かが言っていたのを思い出した。

「どうしよう、どうしよう」

 いくら考えても「どうしよう」しか思い浮かばない。このまま服を脱いで平然と浴室へ向かってしまいそうなほどどうすればいいのか分からなかった。着替えを入れておくためのカゴの中にルナの寝間着と――そんなことよりも下着がある。意味が分からない。いずれ親父もここへ入ることになる。隠さなきゃと思ってカゴごと洗面台下の収納へしまいこんだ。

 バスタオルが折りたたんであるのをついでに見つけて、ぼくはそれを手に取って顔面に巻き付けた。視界を完全にふさごうと思った。これなら浴室へ入っても大丈夫だと思ってやったことだった。

 ぼくの気配に気づいたのか、さっきから浴室の方で水面を移動する音が頻繁にきこえてくる。そうだ、親父の来たことをルナに報せなくちゃならないと今さら気がついた。バスタオルで顔を覆ったまま浴室へ向かう戸のガラス部分をノックした。

「だれ……」

 ルナの声がこちらの様子をうかがう。

「親父が来た」バスタオルのせいで声が出しにくい。

「え? なに……」

「親父が来た!」

 ノックが脱衣所入り口を再度叩いて、ぼくは思わず跳ね上がりそうになる。その衝動で、つい浴室に入ってしまった。戸を開けた瞬間蒸気がむわっとぼくを包み込んで、

 ルナは声の代わりに思い切り水の音を立てた。

「おいカイまだか!」

 親父の声は怒気をはらんでいて、ぼくはタイルで足を滑らせ転倒する。もうボロボロじゃないかと泣きそうになった。

「今開けるから」

 思わず言ってしまう。思わず、とりあえず、なんとなく、とっさに――。そんな思考ばっかりだ。危機的な状況に陥ると、ぼくは頭では何も考えられなくなるのだ。

「……カイ、大丈夫?」

 ルナが怪訝そうに、声をひそめて訊ねてくる。ぼくは慌てて起ち上がって脱衣所の鍵を手さぐりで探し当てた。そして鍵を落とすと急いで浴室内に引っ込んで、さらに戸をぴしゃりと閉めた。浴室の戸はすりガラスになっている。だから中身は色彩しか確認できないはずだ。

 力が抜けて、浴槽らしきものを背もたれにぼくは屈みこんだ。その直後に、

「ふーっ、やっとキレイイレイできる」

 と親父が脱衣所に入り込んできたのが分かった。服にお湯がしみ込んでくるのが分かったけど、もはやどうだっていい。じっと声を殺して、その場で身を固くしていた。

 手を洗う音だけが聞こえる。蛇口から出る水の音と、それが止まると親父は泡で入念に手の汚れを取る。

 浴槽の中で、時折ルナの気配が水面に静かな音をたてた。動きは何となく感じ取ることができる。姿のことは、バスタオルのおかげかあまり気に入らなかった。

「なあカイよ」

 再び蛇口から水が勢いよくひねり出されて、たぶん泡をすすぎ流しているのだろうと予想していたときだった。親父が何の前触れもなく、ぼくの名前を呼んだ。「ん?」と空返事をすると、

「お前に、少し言っときたいことがあるんだが、いいか? ……ルナのことなんだが」

 水面がざわめきが固まったのが感じられた。ぼくも一瞬バレたんじゃないかと焦って、

「どうしたんだよ、急に」

「……いや、さっきお前が娘とか言ったからな、ちょっと思い出したんだよ」

「ああ……」

 親父はルナがここにいることには気づいていないのだと分かって、わずかに緊張が緩まった。

 蛇口の音が止まる。

「実は、このことはルナに『言うな』って止められてることなんだが。そして俺はどちらかというと娘が欲しかったからな……、今までずっとルナの言うことをきいて、黙ってたんだ」

 ぼくはすっかり疲れ切っていて、それがルナの隠し事についての話題だと頭で理解しても、ぼんやりと「そっか」と思うことしかできなかった。

「だがカイ、お前だって俺の愛すべき子どもの一人だ。俺だって両方ともの願いをかなえてやりたいもんだが……、どうやら片方の願いしか叶えられない」

「親父に愛すべき子どもとか言われたら、なんか気持ち悪いんだが」

「さっきのお前よりはマシだろうが」

 ごもっともだ。親父はコップに水を入れながら続ける。

「俺からすれば、ルナの言っていることにも頷いてやるしかない。ルナは、お前のためにこの話を隠し通すつもりでいる。だが、やはりお前にも知らせておく必要があると、俺は常識的に考えて思うわけなんだ」

「……うん」

「だからやっぱり、これを知るかどうかは、お前の判断に委ねることにしようと決めた。……カイ、お前はこの話を聞きたいか? 聞いたらたぶん、お前だってかなり心配すると思うんだ。それを考えて、ルナは俺に口止めさせようとしたんだと思う。カイ、お前はそれでも、この話を聞きたいか? 聞く覚悟があるか?」

 そんなに深刻なニュースなのだろうか。だけどぼくに、それを訊ねようとする勇気は沸いてこなかった。

 ――ルナがぎゅっと、ぼくの耳をふさいでいた。痛いくらいにぼくの頭を挟み込んで、流れ込もうとする親父の言葉を何とか阻止しようとしていた。

「ダメだよ、」

 ルナはぼくの頭の上に顔を押し付けているようで、そんな言葉が耳元で痛々しく聞こえた。

「ぜったい、だめ……っ」

 ぼくにはそれを訊ねる勇気なんてなかった。さっきのあまりの間抜けさに、ぼくは自分の弱さを嫌と言うほど思い知らされた。そんなぼくがルナの隠し事を知ったって、どうせロクなことにならないと思った。もう、何も考えたくないのだ。無性に頭から力が抜けて、

「いいよ、知らさなくて」

「……でも、知りたいんだろう?」

 意外そうに言う親父に、ぼくの心はなぜか痛む。

「そりゃあ。だけど……、いいんだ。ルナが、ぼくのためにそうしてくれてるんだろ? だったらいいよ」

 親父は「そうか」と呟くと、盛大にごろごろと音を鳴らしてうがいをし始めた。ルナは耳をふさぐ手から、力を弱める。ふと、聞いた方がよかったんじゃないかと思い直しそうになった。自分は一体何がしたいんだろうか。知りたいんじゃなかったのか。でももう考えるのがいやで、だから考えるのをやめた。これで良かったんだ、と。

 そう、これで良い。知ったところで、ぼくにできることなんてないのだ。こんな弱いぼくに、一体何ができるというのだろうか。今朝の練習が全くの浪費に思えてきて、次の瞬間全てがバカバカしく感じられた。

 サッカーを諦めたときもこうだったとふと思い出す。何もかもどうでもいいと思えてくるこの感じ。美村香奈は言っていた。弱さを受け入れるのは難しいと。たぶんそれは合っているんだろうけど、本当に難しいのはそこからなのだろう。全ては弱さを受け入れてから。それはただのスタートラインでしかない。

 そこからどうやって立ち上がるか。それが一番難しいことだ。少なくともぼくにとっては。そこでぼくは何度も挫折したのだった。

 そして今回も――、ぼくはまた、挫折してしまうのだろうか。

 

「じゃああと三日、留守番よろしく」

 と親父は言い残して脱衣所を去っていった。

 水蒸気の漂う風呂場の温度は夏の暑さとあまり変わらない。自分が汗まみれになっていることに気づいて、次にルナがぼくの頭を抱えているのに気が付いた。大事なものを奪われることを恐れる子どもみたいに、腕でぼくの首をしめつけるように。ぼくの後頭部には、濡れた皮膚がやわらかいクッションみたいにあった。

「……危なかったな」

 ルナはぼくの頭に顔を埋めたまま、うなずくのが感じられる。

「ごめんな、こんなとこ、入りこんだりして。……早く出ないとな」

「いかないで」

 ルナがぼくの頭をもっと引き寄せた。

「いかないで……、」

 喉から言葉を絞り出すのが苦しそうな声で、ルナは繰り返した。ぼくももっとここでこうしていたかったから、されるがままになっていた。ルナの声を聞いていると、ぼくもシンクロしたように苦しくなる。だけどルナの感触が、あたたかさが、それを和らげてくれていた。こうされていると、ぼくは不思議と安心した。

 この安心は、あの春の日に味わったものに似ている。

 ゲームセンターで、ルナと手を重ね合ったときのあの感じと。CDショップで一緒に音楽を聴いていたあの感じと。公園で一緒におしゃべりをしていたときのあの感じと――。

「ルナ」

 この名前を呼べることはとても幸せなことだった。そしてその呼びかけに反応してくれる人がいることは、もっと幸せなことだった。

「なんで、離れて住まなきゃいけないんだ、ぼくたちって。一緒に住んじゃいけないのか?」

「……おばあちゃんが、許してくれない」

「おばあちゃん?」一瞬、ルナたちがこの家を去ってから亡くなった祖母の遺影が思い浮かんだけど、

「おかあさんの、お母さん」

 ルナの言葉で思い出す。ぼくも一度会ったことがある。母さんの実家はウチみたいな二階だてだけど、敷地は段違いにとてつもなく広くて、和室からししおどし《、、、、、》が石を打つのが見える。そこで母さんに厳しい口調で何か言っているおばあちゃんの姿が、小さい時からぼくの頭に染みついている。

 たしかルナは、今そこに住んでいるんだっけか。

「おばあちゃんは、跡取りが欲しいの。松木って苗字の子どもが欲しかった。それが、わたし」

「……だから親父は、母さんは、ぼくらをバラバラにしたのか?」

 ルナは否定するわけでもなく、頷くでもなく、ぼくの髪の毛に顔を潜りこませる。

「でもそんなこと、どうだっていいよ、もう。ね、カイ……」

 抱きしめる腕にそっと手を置くと、ルナはその手に指を絡ませてきた。ぼくらはぎゅっと手を握りしめあう。そうだった。ぼくは挫折している場合じゃなかった。ぼくはずっとルナと一緒にいたい。この手が離れないように、この幸せを逃さないように、ぼくは

「強くなるよ、ルナ」

 さらに強く、握りしめた。

「頑張って強くなって、おばあちゃんでも親父でも母さんでも、危機はなんだってぼくが跳ねのけてやるから」

 忘れかけていた。自分の気持ちを。

「そしてぼくは、ルナを笑顔にするよ」

 ルナは「カイ……」とぼくをいっそうひきよせる。

「べつに、カイは強くならなくていい」

「……ん?」

「わたしは、カイのそういうところが好きだから。カイは昔からそう。やることなすこと全部失敗して、不器用で……、でも、わたしを想ってくれてるのが分かる。わたしはカイのそういうとこ、全部受け入れられるから。わたしたちは双子でしょ。わたしだって、カイに守られるだけじゃいや。カイが強くならなくたって、いいの」

「それでもぼくは、強くなりたい」

「……うん。だから、ずっとわたしといっしょでいてね。ずっとずっと、離れないで。わたしはカイじゃなきゃイヤ、だから、離れないで、わたしのそばにいて」

 絡み付けた手を、ぼくを抱きしめた腕を、ルナはとうぶん放してくれそうになかった。ぼくも放さなかった。しばらくのあいだ、ぼくらはそうやって浴室の中を過ごした。

 時間は分からなかった。時折雫がタイルに落ちる音が聞こえてきて、気が向いたときに名前を呼びかけて喋った。あまりの幸せに全身がとろけてしまいそうなほど幸せで、それ以外のことは何も考えちゃいない。たとえばここが風呂場であることとか、ルナが一糸まとわぬ姿であることとか。少しは気になっていたけど、もう何でもよかった。一緒にいれればそれだけで。それだけでよかった。

 


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