第六話 鬼姫(2)
「ウチの親父……、今はもうそんなことはないんだけど、一時期お母さんに厳しい時期があったのよ。うちはどっちかというとお母さんの方が強いんだけど、その時は親父がお母さんを謝らせたり……、泣かせてたりも、してた」
美村の親父のことは知っている。たしかどっかの工場で働いていて、見た目通りの頑固者だった気がする。職人気質というか、近所づきあいが苦手そうというか、ぼくは子どもの頃、美村香奈の親父がなんとなく苦手だった。
「……まあ、今となっては笑い話なんだけどね。そのころは仕事が上手くいってなかったらしいの。でも小学生のわたしは、それを見て怖くなった。男の人が本気を出したら……、こんなことになるのかって。ちょうど小六に上がったぐらいのころだったわね、それから一年ぐらい、ウチの親はケンカばっかりしてた」
「……今は、けっこう仲良さそうだよな?」
「うん。あの一年間だけだった。ってか今もあんなんだったら『親父』なんて呼べないし。そういや、あのころは『お父さん』って呼ぶのすら怖かったもの。ギャップっていうかさ、裏の顔を見ちゃった感じ」
降り注ぐ蝉の声を見上げるように、美村香奈は遠い目をした。蝉の声は小雨ぐらいになっていた。代わりに別の虫たちが、なにか固いものを擦り合わせたような音を奏で始めている。
「それで五月ぐらいに、『おにひめ』の役が決まるでしょ? うちの地域の小六は女の子私一人だし、カイくんの地域は男の子カイくん一人だけ。だから主役級は即決定。あれって地域でローテーションしてるらしいのよ。ちょうどわたしたちの住んでるところが、三年ぐらい主役やってなかったらしいから、それで選ばれたんだってさ」
「はた迷惑なローテーションだな」
「ホントにね。……そのせいでっ、あんの七村のバカが結婚結婚とか言いやがってきて、学校行くのが嫌なくらい男子にいろいろ言われて、もーう……ほんっとあのころは地獄だったわ」
そういえば美村香奈が凶暴化し始めたのはその頃だったかもしれない。それまでは周りの女子と同じく、まあ普通の女の子だなあって感じだったんだけど、そこに七村が絡んできてからは男女という印象に変化した。七村よ、美村香奈を男っぽくしてしまったのはきっとお前だ。過去の行為を悔い改めるがよい。
「……ま、そういうことがいろいろ重なって、私、男性ってやつが怖くなったのよね。ほら、男子同士のケンカとか……、ああいうの、見てるだけで泣きそうになる。今までうざいだけだった男子も、ほんとは怖いんだって、だんだん怖くなってった。それで……、女の子である私は、お母さんみたいに泣いて謝るしかないんだって。
そう思ってたときに親父から『おにひめ』の内容を教えてもらってちょっとびっくりしたのよ。鬼姫は女の人なのに強いんだーって。鬼姫みたいに乱暴にすれば、男の人も弱くなるかもって思ったわけ。だから私は鬼姫みたいになろうって決心した。……強くなって、怖いものを無理やり抑えつけちゃおうってね。
……でも、そういえば鬼姫はあのころの親父にちょっとだけ似てた気がする」
言葉を切ると、美村香奈はあぐらを組んでいた脚をすらっと伸ばしてこちらを見た。
「あーあ、ほんとうの強さって、いったいなんなのかしらねえ?」
こちらの答えは待っていないようだった。どちらかというと同情しているような口調で言って、
「本番前の日、親父とお母さんが今までで一番きついケンカが始めちゃって、私はそれを見るのがもう耐えられなくて、部屋で劇のセリフ暗記してるふりして逃げ出したのよ。そこからは憶えてるでしょ。私はカイくんにばったり出会ってしまった」
ぼくもそのシーンを思い出す。
遊びから帰る途中だったと思う。遊びの楽しさから解き放たれて夕焼け空を見た瞬間、明日の劇の本番を思い出して急に不安になってきた。そんなときに、美村香奈と遭遇したのだった。
「劇の練習をしよう」と美村香奈に言われて、ぼくはそれに付き添った。二人きりで神社にのぼって、たしか石段やお堂に灯りが取り付けられていて、人はいなかったけどそんなに寂しくはなかった。やっぱりちょっとは怖かっただろうけど、美村香奈がいたのでまだマシだった気がする。
劇の練習が始まってからだ。美村香奈の様子が変貌した。たとえば鬼姫の命令で奪った砂糖を、「それは私だけのものだ」と鬼姫から無理やり奪い取られるシーン。最初は殴るところも蹴るところも単なる物真似だったんだけど、美村香奈はいつしかぼくを本気でぶつようになってきた。
「こういう告白でウソはつきたくないから正直に言っとくけどさ、ほんとに楽しかった。だってカイくんなんにも言わずに殴られてるだけなんだもん。よく分かんないんだけどスカッとしたわ。人形をぼこぼこにするみたいに。強いっていいなーって思った。親父も男子も、毎日こんなことしてるのかと思うと、もっとカイくんにいろいろしたくなった」
もう一回もう一回と何度も殴られた。あんまり痛くはなかったけど、怖いと思った。痛みに泣かされたんじゃなくて、怖くて泣いていた。
「最後のセリフ言ってる途中に、やっと自分がヤバイことしてるんだってことに気づいたわ」
――食ろうてしもうた。れんりのえだを食ろうてしもうたんぢゃ
ようやく訪れたそのセリフのあと、なぜか美村香奈も一緒になって泣いていたのだった。ぼくらはいつのまにか眠っていて、朝が近いころ大人たちにたたき起こされ家へ連れ戻された。
「そういえばあのとき気づいてたのよ。何かが違う、って。私のやってることは間違いだって。それが、今度はルナに気づかされちゃった。……私はあのときと何も変わってない。自分のことを、強いやつだって思いたいだけなのよ……」
「偽の強さ」という言葉が頭の中に思い浮かんだ。自分のことをかっこいいと思わせたい自分。ぼくはルナにどう思われているのだろうか。偽の強さへの欲望。強さが欲しい。ルナが安心して頼ってきてくれるほどの強さが。この思いは、はたして「偽の強さ」なんだろうかとふと心配になった。
「ほんとうの強さ、か……」
ぼくは口に出して考えてみる。
「ぼくも、似たようなことを考えてたんだ。強くなりたいって」
そう思い始めたのはいつだっただろうか。そうだ、今日の朝、先生の言葉を聞いたあと。
「強くならなきゃって思ったんだ。練習をこんなにきついと思ったのも、やればできるかもと思えたのも初めてだった。こんなにきつい練習毎日こなしてる美村を改めて尊敬したのも、今日だ」
「私のどこにそんな……、尊敬するような要素があるっての」
「実際そう思ったんだからしかたないだろ……。それか、強くなりたいって思ったことで、同じく強くなろうとしてる美村を応援したくなったのかもしれない。とにかく、美村には頑張ってほしかった」
「だいたいっ、」
と美村香奈は声を大きくする。照れ隠しなのはすぐ分かった。
「なんでカイくんは強くなりたいと思ったのよ?」
「はあ、なんでって……、」
妹のため、なんて口に出すのはやはり恥ずかしい。だから他の言葉を探そうとした。今日の練習の前、ぼくは何かを思い知った。――何か。やるせない感じ。自分に対しての怒りにも似た感情。なんでルナは本当のことを話してくれないんだろう。そんな疑問に、ぼくは一応ひとつの答えを見つけた。
「自分が弱いから」
口に出してから、それが一番の答えだという自信が急にわいてきた。
「自分が弱いから、強くなろうとしたんじゃないか? 自分は弱いんだと知ったから……、ほら、ぼくの腕とか、美村とあんまり変わんない細さなんじゃないか? 男なのになあ……めちゃくちゃ弱いんだよ。だからさ、ぼくは強くなろうとしたんだと思う」
「ほんと、」
と美村香奈はぼくの腕をぎゅっと掴んでくる。
「片手で指が届くとか、ってかなにこの腕ほっそー……、あんたホントに男子?」
「うん。ってか死にたくなるからそれ言わないでくれ」
ぼくはむかしから痩身がコンプレックスなのだ。人には生まれつき、「筋肉線維」という筋肉を形作る束みたいなものの数が決まっており、ぼくの場合それが普通の男性より極端に少ないのだという。ルナに奪われてしまったのだろうか、もしくは本来女性になるべきだったのか。
「……でも、そうかもね。弱いから、強くなるのよね。こんな細っちい腕という過酷な現実を受け入れるあんたはすごいと思うわ」
「はっはっはっすごいだろうもっと褒め称えよ」
「ギャグじゃなくってね、」
と美村香奈はぼくの腕を締めつけていた指の輪っかを外した。
「……弱さをうけいれようとしなかったのね、私は。陸上の天才であるルナちゃんのことを見て、私は自分の弱さを思い知ったけど、それを受け入れたくなかった。隠そうとして何度も練習したけど、よけいに自分の弱さを思い知ってばっかり。自分がいったい何やってんのか、さっぱり分かんない」
階段でもがく《、、、》美村香奈のことを思いだした。そして「おにひめ」のときの美村香奈を。
「……ミタ先輩は分かってたのかもね。私がただもがいてるだけなんだって」
「ん? そういや毎日言ってるもんな、勝負しょうぶって。なんであそこまで、先輩との勝負にこだわるんだ?」
「知らなかった? 私、ミタ先輩に憧れて陸上部に入ったのよ」
「そりゃあおしるこ飲んでるだけで部活に参加したことになるあの地位には誰だって憧れ」
「見た目だけで判断しない」
とチョップが頭を一刀両断して、
「……先輩が走ってるとこって、見たことある?」
「運動場で横になりながらナメクジみたいに這ってるとこなら」
再びチョップが、今度はみぞおちに叩き込まれてぼくは息ができなくなった。
「あんたって見た目で判断しすぎよね。言っとくけど私は、カイくんを弱い人だとは思ってないよ。細っちいしふにゃふにゃだけど、まあ肉体的にはめちゃくちゃ弱いけど」
けっきょく弱いんじゃないか。
と突然、細い枝が折れるような音が、どこかの方向から聞こえてきた。まるで巨大な動物が茂みをあちこち踏み倒しているような。ぼくたちが黙り込むのに少し遅れてその音も止んだ。
「……なあなあ、」
「ななななにかしら」
言いながら美村香奈はぼくの腕を掴んでいた手をそっと放す。
「熊って……、出ないよな、夏に」
「クマって? クマってなに?」
「鹿だよな、ああ鹿だよ、まあ猪かもしれないけど、鹿しかしか鹿」
茂みの中でまた何かが蠢いたようだった。反射的に跳ね上がって舞台から下りる。ぼくは薄暗くなった前方に、前かがみで地を這う巨大で黒い動物を描こうとして頭を振った。背後に何かの気配がして、振り返ったらそこには深い暗闇が広がっていた。
「……おうちへかえろうか」
「かえろう、かえりましょう」
「美村さん」
「何」
「美村さん動けません」美村香奈はぼくを盾にするかのように胴体を強く掴んでいて、
「……あ、あのねえ、」
「はい」
「こ、こしが、」
「コシガ」
「こしがぬけた」
「あらまあ」
ぼくは人生で初めて女子をおんぶした。それは素晴らしい体験だったはずなんだけど、怖すぎてぼくはそれを楽しむ余裕なんてなかった。薄い闇と虫の声に包まれながら、階段の下に灯っている街灯だけを頼りに全力疾走で逃げ切った。
熊は人の声を恐れるという。ぼくと美村香奈は逃げる際中、ものすごい変人と化していた。たしかぼくは「やわらかーいやわらかーい」と叫んで、美村香奈は「おかあさまおとうさまいまかえるわきょうはコロッケね!」と叫んでいた気がする。意味が分からない。それほど怖かった。死ぬほど怖かったのだった。




