3.椅子の上の花嫁
新婚の夜、奥沢町はひどく冷えていた。
部屋には祝いの飾りが貼られ、新しい布団が敷かれていた。智也は布団のそばに座り、
花嫁衣装の栞を見ていた。顔には抑えきれない満足が浮かんでいる。
ずっと欲しかったものを、ようやく手に入れたような顔だった。
栞は椅子に座っていた。
背筋を伸ばし、両手で衣装の端を握りしめている。
智也はすぐには近づかなかった。しばらく彼女を眺めてから、ふと笑った。
「知ってる?俺、ずっと前から栞のことが好きだったんだ」
栞は顔を上げた。
智也の目には、少年のような高揚があった。
「中学のとき、栞は二年七組で、俺は三年二組だった。体操の時間、間に一クラスあるだけだったんだ。赤いヘアピンをしていたのを、今でも覚えてる」
栞は驚いていた。
心の中に、ごく小さな波が立ったのは確かだった。
突然自分の人生に入り込んできたこの男は、手術費だけが理由で現れたわけではなかった。
自分が何も知らないころから、彼は自分を見ていた。
けれど、その小さな波はすぐに恐怖にのみ込まれた。
夜が深くなっていく。
智也は探るように立ち上がった。
「もう遅いし、寝よう」
栞はすぐに後ろへ身を引いた。
「眠くない」
智也が一歩近づいた。
声はまだ穏やかだった。
「明日もいろいろある。眠くなくても横になったほうがいい」
栞の呼吸が乱れた。
智也が近づいた瞬間、彼女は机の上にあったはさみをつかみ、その先を彼へ向けた。
「来ないで」
智也は固まった。
新婚の夜。
花嫁が椅子に座り、はさみを新郎へ向けている。
彼の顔から、温かさが少しずつ消えた。
気まずさに変わり、やがて怒りになった。
「何してるんだよ。ドラマでもやってるつもりか」
智也は布団を乱暴にめくり、服を着たままその中へ入った。
栞は椅子に座ったままだった。
夜半を過ぎるほど寒さは増していった。厚手の上着を着ているだけの彼女は、体を震わせながら窓の外が少しずつ明るくなるのを見ていた。
頭の中にあったのは、一つだけだった。
早く朝になってほしい。
けれど、その夜はどこまでも終わらないように思えた。
翌朝、智也が目を開けると、栞は椅子をベッドのそばへ移して座っていた。
まっすぐ彼を見ていた。
智也は驚いて身を起こした。
「びっくりさせるなよ」
栞はうつむいた。
「話したいことがあるの」
智也は布団をまとったまま座った。
「何?」
栞の声は小さかった。
「結婚したばかりで、まだ慣れないの。少しだけ時間をくれない?」
智也はしばらく彼女を見ていた。
そのころは、まだ完全に我慢を失ってはいなかった。
彼は軽く栞の頭を撫でた。
「いいよ。三日間は、二人とも服を着たまま寝よう。俺は触らない。先に顔を洗ってきな。唇が紫になってる」
栞はその親しげな仕草にも慣れなかった。
それでも、ぎこちなく笑った。
「ありがとう。少しずつ慣れるようにする」
新婚の夜の気まずさは、ひとまず押し込められた。
その後の三日間、二人は普通の新婚夫婦のように過ごした。昼は食事をし、親戚に会い、家の片づけをした。
夜になると、布団の端と端で眠った。
四日目の夜も、栞は早々に椅子へ座り、布団に入ろうとしなかった。
智也は怒らなかった。
ただ背を向けて横になった。
「椅子は冷える。服を着たままでいいから、そっちで寝なよ」
沙也香は、そこで静かに尋ねた。
「最初のころ、智也さんはあなたに優しかったんですね。受け入れようと思ったことはありましたか」
栞は少し笑った。
「好きだとは思っていました」
少し間を置いた。
「でも、触られるのが怖かったんです。洗濯も、料理も、足湯の用意もできます。でも、触られるのだけは駄目でした」
彼女はそう話すときも、子どものような笑顔を浮かべていた。
沙也香は、ますます苦しくなった。
栞が言う「触られるのが怖い」は、わがままではなかった。
本人でさえ説明しきれないほど深い恐怖だった。




