表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女性専用刑務所の面会室:一線を越えた【危険な女たち】の犯罪告白  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
98/128

2.十九歳の港南市

十九歳の年、栞は初めて奥沢町霧原地区を出た。

霧原は海坂県の北側にある。山が多く、冬が長い。高校を出た若者たちは、市街地へ出られる者は出ていく。そうでない者は、知り合いを頼って港南市や海坂市内へ短期の仕事に出た。


森下家は、山の斜面に建つ古い木造住宅に住んでいた。父の修三は林業の短期仕事や農協の雑仕事で家計を支え、母の美代子は近くの野菜選別場で働いていた。

裕福な家ではなかった。


栞は子どものころから厳しく育てられ、男の子とまともに話したこともほとんどなかった。素直で、我慢強く、両親が苦労していることも知っていた。


十九歳の春、彼女は同じ地区の女の子たちと一緒に霧原を離れ、港南市へ向かった。知人の紹介で入ったのは建設現場の短期作業だった。清掃、資材の整理、簡単な運搬補助などが主な仕事だった。


それは、彼女が初めて山あいの町を本当に離れた日だった。

港南市の駅。

現場の足場。

コンビニの明かり。

夜になっても消えない街の光。


栞にとって、そのすべてが別の世界のように見えた。

だが新鮮さは、数日しか続かなかった。


学歴も資格もなく、特別な技術もない。安全ヘルメットをかぶり、現場で物を運び、散らかった資材を片づける。ほかの女の子たちは仕事のきつさに耐えられず、次々と帰っていった。

栞だけは残った。


毎月の給料を家に送り、母に預けた。

兄の亮介がいつか結婚するときのために、少しでも貯めておいてほしかった。

沙也香は尋ねた。


「そのころ、男の人と話すことはありましたか」


栞はうつむいた。

頬が少し赤くなった。


「ありません。家が厳しかったので。現場では、いじめられたりからかわれたりするのが怖くて、いつも顔にわざと土や灰をつけていました」


その声は小さかった。

沙也香は胸が詰まった。

こんな少女が、後に突然、婚姻という形で男のもとへ差し出されることになる。


異性との距離の取り方も知らないまま、夫という存在に向き合わされることになるのだ。

事故が起きたのは、栞が帰郷しようとした途中だった。


港南市で数か月働いたころ、彼女は急に家が恋しくなった。現場の責任者に仕事を辞めたいと伝えると、最初は止められたが、最後には駅まで送ってもらった。

バスが出てしばらくすると、栞は急に息苦しさを覚えた。

彼女は途中で降りた。

そのあとのことは、自分でもうまく説明できない。


夢遊病のように歩き続けた。高架橋の近くまで来たとき、ふと下をのぞき込んだ。

次の瞬間、彼女は橋の端から落ちていた。


目を覚ましたとき、栞は奥沢町立病院のベッドにいた。

脚は固定されていた。

母はベッドのそばに座り、目を腫らしていた。

沙也香は尋ねた。


「そのとき、どうして落ちたんですか」


栞は首を少し傾けた。

遠い出来事を思い出すような顔だった。


「わかりません。下を見たら、急に飛び降りたくなったんです」


彼女は小さく笑った。


「子どものころにも、似たようなことがありました。お正月の日、私は家の猫が本当に好きだったのに、急にその子を投げて死なせてしまったんです。兄が泣いていました。私も、どうしてあんなことをしたのかわかりません」


面会室に、短い沈黙が落ちた。

沙也香の背筋に寒気が走った。

栞には、「かわいそう」という一言だけでは説明できないものが多すぎた。

恐怖。

衝動。

苦痛を話すときの、場違いな笑顔。


そのすべてが、誰にも理解されない部屋に閉じ込められているようだった。

そして、その転落事故が、彼女の人生を決定的に変えた。


医師は森下一家に、栞の怪我は治療できないものではないと説明した。

しかし手術とその後のリハビリには、大きな費用が必要だった。

およそ七十万円。


都市部の家庭なら、どうにか工面できたかもしれない。

だが森下家にとっては、目の前に立ちはだかる壁だった。


修三は借りられる相手をすべて回った。親戚、近所の人、同郷の知り合い。それでも足りなかった。


医師は、これ以上遅れれば後遺症が残る可能性があると告げた。

美代子は病室の外で口を押さえて泣いた。


修三は廊下の長椅子に座り、両手を髪に差し込んだまま、何も言えなかった。

そんなとき、一人の若い男が森下家を訪ねてきた。

佐久間智也だった。


隣町の男で、背が高く、栞より数歳年上に見えた。修三が戸を開けると、智也は玄関先に立ち、封筒を手にしていた。


「森下栞さんのお宅ですか」


修三は戸惑った。


「そうですが、あなたは」


「佐久間智也といいます。栞さんが入院していると聞きました」


修三は警戒した目で彼を見た。

智也は封筒を玄関脇に置いた。


「手術費なら、俺が何とかできます」


その言葉は、突然降りてきた一本の縄のようだった。

修三はつかみたいと思った。

けれど、つかむことが怖かった。


「どうして、うちを助けるんですか」


智也は少し黙った。


「昔から、栞さんのことを知っています。中学のころ、学校が近かったんです。彼女は覚えていないと思います。でも、俺は覚えています」


彼は顔を上げた。


「退院したあと、栞さんがよければ、結婚したいんです。俺に彼女を支えさせてください」


修三はその場で言葉を失った。

それは普通の求婚ではなかった。

普通の援助でもなかった。

言葉は丁寧だった。


だが誰の目にも、金と結婚が同じ卓の上に置かれていることは明らかだった。

修三は病院へ向かい、その話を妻と娘に伝えた。

栞は聞き終えると、すぐに首を振った。


「いや」


彼女は布団を握りしめ、硬い声で言った。


「知らない人だよ。そんな人と結婚するくらいなら、この脚はもういい」


美代子の目から涙が落ちた。


「あなたはまだ若いのよ。これから先が長いのに、脚が悪くなったらどうするの」


栞は顔をそむけた。


「だからって、知らない人と結婚なんてできない」


修三は病室の入口に立っていた。

顔は灰色だった。

娘を無理に責めたわけではない。


けれど、その沈黙は責める言葉より重かった。

美代子はベッドのそばに座り、栞の手を握った。


「恨むなら、自分の運を恨んで。こんな家に生まれてしまったんだから」


その一言が、栞の最後の意地を折った。

彼女は母に抱きついて、長く泣いた。


病室の外では、修三が壁にもたれてしゃがみ込み、肩を震わせていた。

こうして、栞は智也の金を受け取った。

そして、その結婚も受け入れた。

結婚式の日までに、二人が会ったのはたった三回だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ