2.十九歳の港南市
十九歳の年、栞は初めて奥沢町霧原地区を出た。
霧原は海坂県の北側にある。山が多く、冬が長い。高校を出た若者たちは、市街地へ出られる者は出ていく。そうでない者は、知り合いを頼って港南市や海坂市内へ短期の仕事に出た。
森下家は、山の斜面に建つ古い木造住宅に住んでいた。父の修三は林業の短期仕事や農協の雑仕事で家計を支え、母の美代子は近くの野菜選別場で働いていた。
裕福な家ではなかった。
栞は子どものころから厳しく育てられ、男の子とまともに話したこともほとんどなかった。素直で、我慢強く、両親が苦労していることも知っていた。
十九歳の春、彼女は同じ地区の女の子たちと一緒に霧原を離れ、港南市へ向かった。知人の紹介で入ったのは建設現場の短期作業だった。清掃、資材の整理、簡単な運搬補助などが主な仕事だった。
それは、彼女が初めて山あいの町を本当に離れた日だった。
港南市の駅。
現場の足場。
コンビニの明かり。
夜になっても消えない街の光。
栞にとって、そのすべてが別の世界のように見えた。
だが新鮮さは、数日しか続かなかった。
学歴も資格もなく、特別な技術もない。安全ヘルメットをかぶり、現場で物を運び、散らかった資材を片づける。ほかの女の子たちは仕事のきつさに耐えられず、次々と帰っていった。
栞だけは残った。
毎月の給料を家に送り、母に預けた。
兄の亮介がいつか結婚するときのために、少しでも貯めておいてほしかった。
沙也香は尋ねた。
「そのころ、男の人と話すことはありましたか」
栞はうつむいた。
頬が少し赤くなった。
「ありません。家が厳しかったので。現場では、いじめられたりからかわれたりするのが怖くて、いつも顔にわざと土や灰をつけていました」
その声は小さかった。
沙也香は胸が詰まった。
こんな少女が、後に突然、婚姻という形で男のもとへ差し出されることになる。
異性との距離の取り方も知らないまま、夫という存在に向き合わされることになるのだ。
事故が起きたのは、栞が帰郷しようとした途中だった。
港南市で数か月働いたころ、彼女は急に家が恋しくなった。現場の責任者に仕事を辞めたいと伝えると、最初は止められたが、最後には駅まで送ってもらった。
バスが出てしばらくすると、栞は急に息苦しさを覚えた。
彼女は途中で降りた。
そのあとのことは、自分でもうまく説明できない。
夢遊病のように歩き続けた。高架橋の近くまで来たとき、ふと下をのぞき込んだ。
次の瞬間、彼女は橋の端から落ちていた。
目を覚ましたとき、栞は奥沢町立病院のベッドにいた。
脚は固定されていた。
母はベッドのそばに座り、目を腫らしていた。
沙也香は尋ねた。
「そのとき、どうして落ちたんですか」
栞は首を少し傾けた。
遠い出来事を思い出すような顔だった。
「わかりません。下を見たら、急に飛び降りたくなったんです」
彼女は小さく笑った。
「子どものころにも、似たようなことがありました。お正月の日、私は家の猫が本当に好きだったのに、急にその子を投げて死なせてしまったんです。兄が泣いていました。私も、どうしてあんなことをしたのかわかりません」
面会室に、短い沈黙が落ちた。
沙也香の背筋に寒気が走った。
栞には、「かわいそう」という一言だけでは説明できないものが多すぎた。
恐怖。
衝動。
苦痛を話すときの、場違いな笑顔。
そのすべてが、誰にも理解されない部屋に閉じ込められているようだった。
そして、その転落事故が、彼女の人生を決定的に変えた。
医師は森下一家に、栞の怪我は治療できないものではないと説明した。
しかし手術とその後のリハビリには、大きな費用が必要だった。
およそ七十万円。
都市部の家庭なら、どうにか工面できたかもしれない。
だが森下家にとっては、目の前に立ちはだかる壁だった。
修三は借りられる相手をすべて回った。親戚、近所の人、同郷の知り合い。それでも足りなかった。
医師は、これ以上遅れれば後遺症が残る可能性があると告げた。
美代子は病室の外で口を押さえて泣いた。
修三は廊下の長椅子に座り、両手を髪に差し込んだまま、何も言えなかった。
そんなとき、一人の若い男が森下家を訪ねてきた。
佐久間智也だった。
隣町の男で、背が高く、栞より数歳年上に見えた。修三が戸を開けると、智也は玄関先に立ち、封筒を手にしていた。
「森下栞さんのお宅ですか」
修三は戸惑った。
「そうですが、あなたは」
「佐久間智也といいます。栞さんが入院していると聞きました」
修三は警戒した目で彼を見た。
智也は封筒を玄関脇に置いた。
「手術費なら、俺が何とかできます」
その言葉は、突然降りてきた一本の縄のようだった。
修三はつかみたいと思った。
けれど、つかむことが怖かった。
「どうして、うちを助けるんですか」
智也は少し黙った。
「昔から、栞さんのことを知っています。中学のころ、学校が近かったんです。彼女は覚えていないと思います。でも、俺は覚えています」
彼は顔を上げた。
「退院したあと、栞さんがよければ、結婚したいんです。俺に彼女を支えさせてください」
修三はその場で言葉を失った。
それは普通の求婚ではなかった。
普通の援助でもなかった。
言葉は丁寧だった。
だが誰の目にも、金と結婚が同じ卓の上に置かれていることは明らかだった。
修三は病院へ向かい、その話を妻と娘に伝えた。
栞は聞き終えると、すぐに首を振った。
「いや」
彼女は布団を握りしめ、硬い声で言った。
「知らない人だよ。そんな人と結婚するくらいなら、この脚はもういい」
美代子の目から涙が落ちた。
「あなたはまだ若いのよ。これから先が長いのに、脚が悪くなったらどうするの」
栞は顔をそむけた。
「だからって、知らない人と結婚なんてできない」
修三は病室の入口に立っていた。
顔は灰色だった。
娘を無理に責めたわけではない。
けれど、その沈黙は責める言葉より重かった。
美代子はベッドのそばに座り、栞の手を握った。
「恨むなら、自分の運を恨んで。こんな家に生まれてしまったんだから」
その一言が、栞の最後の意地を折った。
彼女は母に抱きついて、長く泣いた。
病室の外では、修三が壁にもたれてしゃがみ込み、肩を震わせていた。
こうして、栞は智也の金を受け取った。
そして、その結婚も受け入れた。
結婚式の日までに、二人が会ったのはたった三回だけだった。




