【椅子の上の花嫁】彼女は毒で、命を救ってくれた男を殺した 1.道端の草むらに倒れていた夫
二〇一八年三月十五日の夕方、奥沢町霧原地区の空は、あっという間に暗くなっていった。
林田老人は温室から戻る途中、県道沿いの農道を歩いていた。道端の草には春先の冷たい湿り気が残っている。だが、ぬかるんだ土の上に、不自然に引きずられたような跡があった。
その跡をたどっていった林田は、草むらの前で足を止めた。
男が一人、そこに倒れていた。
口元には白い泡がつき、体はもう動いていない。
林田は腰をかがめて顔を確認し、血の気が引いた。
佐久間智也だった。
森下栞の夫だった。
林田はそれ以上近づけなかった。すぐに踵を返し、栞の家へ向かった。森下家の古い木造住宅は、坂道の突き当たりにあった。低い軒先の下には、古びたプラスチックの桶がいくつか置かれている。
林田が戸を叩く手は、震えていた。
扉はすぐに開いた。
栞は彼を見ると、少し驚いた顔をした。
「林田さん、こんな時間にどうしたんですか」
林田は息を切らしていた。
「智也くんが大変だ。すぐ来なさい」
栞の顔色が変わった。
「智也が?」
林田は答えず、ただ急ぐように促した。
栞が林田に連れられて県道脇へ戻ったときには、奥沢警察署の警察官がすでに現場に到着していた。
青い規制線が張られ、数人の警察官が写真を撮っていた。草むらのそばの土はライトに照らされ、白く浮かび上がっている。智也はそこに横たわったまま、まったく動かなかった。
栞は一気に駆け出した。
「智也!どうしたの!」
警察官が彼女を止めた。現場の痕跡を壊させないためだった。だが栞は聞こえていないように、前に立つ警察官を必死に押しのけた。
彼女は夫のそばに崩れ落ち、服を強くつかんだ。
その声は、聞いている者の胸を冷たくさせるほど鋭かった。
「目を開けてよ!ごめんなさい、全部私が悪かったの!」
その言葉に、現場の刑事たちは思わず顔を見合わせた。
早すぎる。
重すぎる。
まだ死因もわからない段階で、普通の遺族が口にする言葉ではなかった。
警察官が遺体に近づき、さらに状態を確認しようとすると、栞は突然、両腕を広げて前に立ちはだかった。顔は涙で濡れていたが、動きは異様なほど強かった。
周囲の者が目を背けたくなるほど泣いている。
それなのに、彼女が必死になるほど、刑事たちは違和感を覚えていった。
「落ち着いてください。死因を確認する必要があります」
栞は首を振った。
声はほとんど割れていた。
「もう亡くなってるんです。静かに逝かせてあげてください。触らないでください。お願いします」
結局、二人の女性警察官が栞を脇へ連れていくしかなかった。
その夜、栞は立っていられないほど泣いた。
だが、わずか一日後。
彼女は重要参考人として、奥沢警察署へ連れていかれた。
司法解剖の結果、智也の体内から有毒物質の残留が見つかった。さらに警察は、森下家の台所からも同じ由来とみられる痕跡を確認した。
証拠を前にしても、栞は最初、否定し続けた。
しかし取調べが続くうちに、心の壁は少しずつ崩れていった。
最後に、彼女はうつむいたまま認めた。
「私がやりました」
警察官はすぐには何も言わなかった。
栞の手は膝の上に置かれ、指先がズボンの縫い目を小さくいじっていた。
「あのときは、何も考えられませんでした。ただ、死んでほしかったんです」
前田沙也香が森下栞に会ったのは、すでに拘置所に移されたあとだった。
栞は三十代だったが、体は小柄だった。面会室の椅子に座り、足先を不安げにそろえている。沙也香を見上げると、彼女はどこか照れたように笑った。
「来てくれてありがとうございます。本当は小さな赤い花を折って渡そうと思っていたんですけど、今日は忘れてしまって」
沙也香は多くの受刑者や被告人に会ってきた。
だが、こんな始まり方をした取材は初めてだった。
目の前の女は、三十歳をとうに過ぎている。それなのに、話し方は小学三、四年生の子どものようだった。笑い方は素直で、目には場違いなほどの幼さがある。
事件記録に、彼女が夫を殺したと書かれていなければ、沙也香はこの女とあの事件を結びつけることができなかったかもしれない。
沙也香は録音機を置いた。
「栞さん、今日は話せることだけで構いません。誰かに話すつもりで、ゆっくり聞かせてください」
栞はうなずいた。
顔には、まだ笑みが残っていた。
その笑顔は、部屋を和ませなかった。
むしろ沙也香の胸を重くした。
なぜなら栞は、苦しみを語るときでさえ同じように笑ったからだ。
痛くなかったわけではない。
ただ彼女は、自分の痛みをどんな顔で語ればいいのか、もうわからなくなっていたのだ。




