4.はさみと三日の約束
半月が過ぎ、智也の我慢は限界を迎えた。
その夜、二人が明かりを消したあと、智也はゆっくり寝返りを打ち、布団越しに栞を抱いた。栞はほとんど反射的に跳ね起き、彼を強く押しのけた。
明かりがついた。
白い光が二人の顔を照らした。
智也は布団の上に座り、歯を食いしばっていた。
「時間がほしいって言うから、待っただろ。三日って言ったのに、半月待った。これ以上どうしろっていうんだ」
栞はベッドのそばに立ち、体を震わせていた。
「無理なの」
智也の表情が変わった。
「俺たちはもう夫婦だろ。何が無理なんだよ」
彼は立ち上がり、栞へ近づいた。
栞は答えなかった。
また、はさみを手に取った。
この数日、彼女はそのはさみを、いつでも手が届く場所に置いていた。尖った先が自分へ向いた瞬間、智也の怒りは一気に燃え上がった。
「何様のつもりなんだよ」
彼は栞を指さした。
声は荒くなっていた。
「俺が金を出してなかったら、その脚は残ってなかったんだぞ。こうして立っていられるのは誰のおかげだと思ってる」
栞ははさみを握ったまま、一晩眠らなかった。
智也も頭まで布団をかぶり、それ以上は何も言わなかった。
翌日、二人は人前では何もなかったように振る舞った。
けれど、その日を境に、夜は栞にとって最も恐ろしい時間になった。
本当に彼女の限界を越えたのは、数日後だった。
その夜、智也は足を洗ったあと、湯を捨てるよう栞に言った。栞が桶を持って外へ出て、再び部屋へ戻った瞬間、智也は扉の陰から現れ、背後から彼女の首を押さえた。
動きはあまりにも早く、荒かった。
栞は声を出す暇もなく、部屋へ引き戻された。
そのあと何が起きたのか、栞は最後まで詳しく語らなかった。
沙也香も追及しなかった。
ただ、そのときの栞だけは覚えている。
面会室の椅子に座り、薄い笑みを浮かべながら、まるで他人の話のように言った。
「あの日から、もっと怖くなりました」
その夜を境に、智也は栞の中で完全に別の人間になった。
彼はもう、手術費を払ってくれた人ではなかった。
昔から自分を好きだった少年でもなかった。
毎日、振り返るのが怖い相手になった。
智也のほうは、すべてがようやく正しい形になったと思っていた。
自分は十分に待った。
十分に我慢した。
目の前の女は、自分の妻だ。
自分が金を出して救った妻だ。
受け入れて当然であり、普通の夫婦として暮らして当然だ。
しかし栞が怖がれば怖がるほど、智也は自分が裏切られたように感じた。
二人の関係は、その日から坂を転がり落ちるように悪くなっていった。
どちらも、本当に立ち止まることができなかった。
それからの日々、栞はますます用心深くなった。
料理をする。
洗濯をする。
部屋を片づける。
できるだけ智也を怒らせないようにした。
けれど、その慎重さは暮らしを良くしなかった。
むしろ、智也を余計に苛立たせた。
彼女が自分を警戒している姿を見るたび、智也は長年の思いを踏みにじられたように感じていた。
ある日、彼は栞の手をつかみ、真剣に話そうとした。
「栞、俺は本気でお前とちゃんと暮らしたいんだ」
栞はうつむき、彼を見なかった。
智也の声が少し柔らかくなった。
「こんなにしてまで結婚したのは、お前を苦しめたいからじゃない。普通の夫婦みたいに暮らしたいんだ。喧嘩したっていい。言い合いになってもいい。ただ、心だけは同じところにあってほしい」
栞は手を引き抜き、機械的にうなずいた。
「うん。わかった」
その投げやりな返事で、智也は完全に切れた。
その日から、栞が少しでも従わないと、彼は手を上げるようになった。
最初は平手だった。
やがて、ベルト、木の棒、手近にあるものは何でも使うようになった。
酒を飲んだ日は、さらにひどかった。
酒瓶が空になった。
食事が気に入らなかった。
湯を用意するのが遅かった。
それだけで、怒鳴り声と暴力が始まった。
栞の体には、いつもあざがあった。冬は厚着で隠せたが、夏になると外へ出ることさえ避けるようになった。
沙也香は尋ねた。
「そのころ、誰かに助けを求めようとは思いませんでしたか」
栞は目を伏せた。
意味がよくわからないと言いたげに、少し笑った。
「離婚したいとは思いました」
「警察や、女性の相談窓口に行こうとは?」
栞は首を振った。
「そういうところが助けてくれるって、知りませんでした」
少し間を置いた。
「それに、逃げたら父さんと母さん、それから兄のところへ行くって言われていました」
智也が一番よく口にしていた言葉がある。
お前は、俺が金を出して救ったんだ。
その言葉は縄のように、何度も栞の首へ戻ってきた。
殴られることが正しいはずはない。
あの夜が普通ではないことも、彼女はわかっていた。
それでも栞は、自分が智也に脚一本分の借りを負っているように感じていた。森下家が返せない金を、自分の体で払っているようにも感じていた。
両親が巻き込まれるのが怖かった。
兄に仕返しされるのも怖かった。
逃げたとしても、自分の行き場があるとは思えなかった。
だから彼女は、その家に残り続けた。
檻に入れられた小動物のように。
扉には隙間があるのに、もう外へ出る方法がわからなくなっていた。




