5.離婚できない妻
長く続いた暴力は、ついに栞に「離婚」という言葉を言わせた。
その夜、智也は酒を飲み、畳の上に倒れるように横になっていた。栞は戸口に立ち、彼を長いあいだ見ていた。
そして、ようやく口を開いた。
「離婚して」
智也は寝返りを打った。
目つきが一瞬で険しくなった。
「何だって?」
栞は指を握りしめた。
「離婚して。こんな生活、二人とも苦しいだけだよ」
智也は起き上がり、冷たい目で彼女を見た。
「無理に決まってるだろ」
声は大きくなかった。
けれど釘のように、栞の心へ打ち込まれた。
「忘れるなよ。お前は俺が金を出して救ったんだ。逃げたら、お前の親のところへ行く。兄貴のところへも行く。森下家がもう一度、俺に何を返せるのか見せてもらう」
栞は何も言えなくなった。
離婚という道も、その瞬間に塞がれた。
両親を置いて逃げることはできない。
兄を巻き込むこともできない。
智也の言葉がただの脅しだと信じることもできなかった。
その日から、ひどく恐ろしい考えが、彼女の頭の中で繰り返されるようになった。
この人が生きている限り、私は逃げられない。
最後に彼女を折ったのは、ある夜の暴力だった。
その日、智也は大量に酒を飲んでいた。
そして栞に、ひどく屈辱的なことをした。
栞は面会室で、その詳細を語らなかった。沙也香も無理に聞かなかった。ただ彼女はうつむき、袖口を強く握りしめたまま、あの奇妙な笑みを浮かべていた。
「あのとき、心の中で誓いました」
彼女は机を見つめた。
「七日以内に、あの人を死なせる。できなければ、私が死ぬって」
沙也香のペンが止まった。
栞の声は小さかった。
小さすぎるほどだった。
けれど、その言葉こそが、彼女を引き返せない場所へ連れていった。
それから数日間、栞は何度も迷った。
やめようとも思った。
警察へ行こうとも思った。
しかし智也の足音が玄関に近づくたび、彼女の体の中で恐怖が先に目を覚ました。
ほかの道は、もう見えなかった。
そして彼女は、最も悪い選択へ目を向けてしまった。
三月十四日の午後、栞は奥沢町の商店街へ出た。
夕食に使うものを買ったあと、目立たない小さな店先でしばらく足を止めた。そこには、鼠を駆除するための薬が並べられていた。店主は、家に子どもがいるなら必ず手の届かない場所に置くよう注意しただけだった。
栞は袋を持って店を離れた。
顔は白かった。
途中、ゴミ箱の前で一度その袋を捨てた。
だが数秒後、彼女はそれを拾い上げた。
その瞬間、目の中から迷いが消えた。
夕方、智也はいつもより一時間早く帰ってきた。
栞は台所で夕食の支度をしていた。玄関の音を聞いた瞬間、手が震え、近くにあった油の容器を倒しかけた。智也は靴を脱ぎかけたまま、その音を聞いて台所へ入ってきた。
彼は眉をひそめた。
「何してるんだ」
栞は調理台に背を向け、必死に声を整えた。
「夕飯を作ってるの」
智也は彼女を一瞥した。
「早くしろ。腹が減った」
その口調は、いつもと同じように荒かった。
栞はうつむいた。
その言葉は、彼女を止めるものにはならなかった。
むしろ、すでに決めていた結末へ向かわせる最後の力になった。
一時間後、夕食が卓に並んだ。
智也はほとんど疑わなかった。熱いと文句を言いながらも、いつものように食べ始めた。栞は箸をつけず、向かい側に座り、智也が食べ物を口へ運ぶ様子を見ていた。
智也が顔を上げた。
「食べないのか」
栞は小さく首を振った。
「お腹が空いてない」
智也はそれ以上、彼女に構わなかった。
食後まもなく、智也は体調を崩した。腹を押さえ、顔色が少しずつ白くなり、額には汗が浮かんだ。最初は食あたりだと思っていたが、やがて立っていられなくなった。
ソファに手をつきながら、彼は栞を見た。
「病院へ連れていけ」
奥沢町立病院は、家から遠くなかった。
けれど、その一キロにも満たない道が、智也にとって最後の道になった。
栞は彼を支え、家を出た。農道を通り、県道のほうへ向かう。智也の体はだんだん重くなり、足取りも乱れていった。
草むらのそばで、彼はとうとう支えきれないほど崩れ落ちた。
栞は、もう支えなかった。
ゆっくりと手を離した。
智也は道端に倒れ、喉の奥からかすかな音を出した。
栞は立ったまま、その動きが少しずつ小さくなっていくのを見ていた。
やがて、完全に止まった。
山のほうから風が吹き、草が静かに揺れた。
彼女は泣かなかった。
人を呼ぶこともしなかった。
智也が動かなくなったことを確認すると、栞は彼を道端の草むらへ引きずった。財布と携帯電話を取り、強盗に遭ったように見せかけようとした。
それで隠せると思っていた。
だが、現場で彼女が泣きすぎた瞬間から、警察はすでに疑い始めていた。




