表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女性専用刑務所の面会室:一線を越えた【危険な女たち】の犯罪告白  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
94/133

3.十年後の電話

十年後、一本の電話が恵理を過去へ引き戻した。


その日の午後、恵理は温室から戻ったばかりだった。手にはまだ土の匂いが残っていた。携帯電話が鳴り、画面には知らない番号が表示されていた。

電話に出ると、懐かしい声が聞こえた。


「恵理、俺だよ。健司」


彼女は台所に立ったまま、包丁をまな板の上で止めた。

その瞬間、十年分の委屈、羞恥、孤独が一気に押し寄せてきた。

だがそれ以上に強かったのは、恐怖だった。


なぜ健司が戻ってきたのか。

彼が戻れば、ようやく保ってきた生活をまた壊すのではないか。

沙也香は、そのとき何と答えたのかを尋ねた。

恵理は少し黙った。


「自分の道を行ってほしいと言いました」


声は低かった。


「もうお互い知らない者同士で、ちゃんと暮らそうって」


だが、健司は聞かなかった。

数日後、大輔が仕事で家を空けていた。

健司は藤原家の前に現れた。


十年前よりずっと老けていた。顎には剃り残しの髭があり、顔色もよくなかった。玄関先で何度も咳をする姿は、肺の奥に灰が詰まっているようだった。

扉越しに、彼は何度も恵理の名を呼んだ。


「恵理、開けてくれ」


家の中で、恵理は扉に背をつけて立っていた。

指は鍵の上にあった。

けれど動けなかった。

健司の声が柔らかくなった。


「この十年、お前がどれだけつらかったか知ってる。今度こそ大事にする。もう一度だけ、チャンスをくれ」


恵理は目を閉じた。

本当なら、その場で警察に電話すべきだった。


しかしその瞬間、十年のあいだ出口を失っていた言葉が、彼の声によって少しだけこじ開けられてしまった。

恵理は扉越しに言った。


「今さら戻ってきて、何になるの」


健司は外で低く頼み込んだ。


「一度だけ会わせてくれ。顔を見たら帰る」


恵理は、とうとう扉を開けた。

扉の外にいた男は、十年前のような勢いのある健司ではなかった。


扉の内側にいた女も、十年前のように甘い言葉だけで揺れる若い妻ではなかった。

それでも、健司の指が髪に触れたとき、恵理は揺れた。

そのぬくもりは、遠い場所から戻ってきたもののようだった。


また間違えている。

そうわかっていた。

それでも彼女は、一歩だけ前に出てしまった。

短い再燃は、すぐに新しい悪夢へ変わった。

健司は完全に変わっていた。


十年前に白倉を出たあと、彼は港南市やその周辺の現場を転々としていた。砂利置き場、解体現場、臨時の工事現場。いくつもの場所で働いた。


やがて肺を悪くし、重い仕事ができなくなった。

金は貯まらず、性格は少しずつ偏っていった。

彼は自分の失敗を、過去のあの出来事のせいにした。

藤原家のせいにした。

そして恵理のせいにした。


最初は、まだ優しい言葉を口にしていた。

やがて、夜になると藤原家の窓の外へ現れるようになった。


恵理は夜中に目を覚まし、窓の外に人影を見た。怖くなって窓に防犯格子をつけたが、安心できる日は来なかった。


庭で足音がするだけで、心臓が縮むようになった。

沙也香は彼女を見た。


「ずっと付きまとわれていたんですね」


恵理はうなずいた。


「戻ってきてから、健司は昔とは違いました」


震えた指を、彼女はすぐに押さえた。


「会うたびに、もう普通の人ではなくなっている気がしました」


恵理が本気で関係を断とうと思ったのは、ある朝だった。


子どもたちを学校へ送ったあと、下河原の細い道を歩いて帰っていた。道端の田には薄い氷が張り、遠くから小学校の朝の放送が聞こえていた。


健司は、道の角で彼女を待っていた。

姿を見た瞬間、恵理の中に嫌悪感が湧いた。

彼女は足を速めた。


「もう来ないで」


健司は追いつき、まだ笑っていた。


「なんで?」


恵理は立ち止まらなかった。


「私たちには、それぞれ家がある。こんなことを続けたらだめ」


健司の笑みが、ゆっくり消えた。


「お前が始めたくなったら始めて、やめたくなったらやめる。そんな都合のいい話があると思ってるのか」


彼は煙草の吸い殻を地面に捨て、靴底で踏みつぶした。

恵理を見る目が、急に荒くなった。


「子どもたち、何時に学校が終わるか知ってるぞ」


恵理は足を止めた。

健司は学校のほうへ視線を向けた。


「俺が校門で待っていたら、どうする?」


恵理の顔から血の気が引いた。

健司は近づき、声を低くした。


「俺から逃げたら、お前が一番後悔することをしてやる」


その日から、恵理は大輔に離婚を迫るようになった。

本当に子どもたちと離れたかったわけではない。


自分が藤原家から消えれば、健司が子どもを脅しに使うことはなくなるのではないか。

そう考えただけだった。


深夜、大輔が起こされたとき、まだ寝ぼけていた。

恵理は畳の端に座っていた。

顔色は紙のように白かった。


「離婚して」


大輔は目をこすった。


「こんな夜中に何を言ってるんだ。明日も子どもを学校へ送らないといけないだろ」


恵理は引かなかった。


「離婚して」


大輔はようやく少し目が覚めた。

彼は恵理を見つめたまま、長く黙った。

そのころ、恵理は何度も離婚を口にした。追いつめられた大輔は、ある日ぽつりと言った。


「海坂市内へ引っ越そう」


恵理は動きを止めた。

大輔はうつむき、低い声で続けた。


「子どもたちの学校も変える。俺は今までどおり走って、金を貯める。お前、小さな店をやりたいって言ってただろ。市内に移ったら、俺も手伝う」


恵理はその言葉を聞いても、心が軽くならなかった。

大輔が恨んでいないわけではない。


それでも最後の最後で、この家を壊し切れなかっただけだった。

だが健司は、彼らが逃げる時間を与えなかった。


二〇一七年一月、健司は再び藤原家へ入り込んだ。

その日の午後、恵理が家へ入ると、彼も後ろからついてきた。背後から抱きつかれた瞬間、恵理の体は固まった。


彼女は必死にもがき、最後に健司の腕に噛みついた。健司が手を緩めた隙に、恵理は彼を外へ押し出し、すばやく鍵をかけた。

鍵が落ちると、健司は外で罵声を浴びせ始めた。


その言葉は汚く、乱暴で、恵理が十年かけて隠してきた羞恥を、壁の隙間から引きずり出すようだった。


恵理は扉の内側で立ち尽くし、爪を手のひらに食い込ませた。

健司が急に声を張り上げた。


「子どもたち、もうすぐ帰る時間だろ」


家の中は静まり返った。

外で健司が笑った。


「開けないなら、俺が迎えに行ってやるよ」


恵理は勢いよく扉を開けた。


「いったい何がしたいの」


健司は奇妙な笑みを浮かべた。


「最近、金を持ってるらしいな」



「持ってない」


健司はポケットから折りたたみナイフを取り出し、わざと学校のほうへ目を向けた。

恵理は持っていた現金をすべて取り出し、彼に投げつけた。


「持っていって。すぐ帰って。もう二度と顔を見せないで」


健司は金を拾い上げ、褒められた子どものように笑った。


「昔の仲だろ。そんなに冷たくするなよ。これは先にもらっておく。次はもっと用意しておけ」


健司が去ったあと、恵理は庭に立ったまま、しばらく動かなかった。

田のほうから吹いてくる風は、刃物のように冷たかった。

そのとき初めて、彼女ははっきりと思った。

また来るなら、あの人が死ぬか、私が死ぬかだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ