3.十年後の電話
十年後、一本の電話が恵理を過去へ引き戻した。
その日の午後、恵理は温室から戻ったばかりだった。手にはまだ土の匂いが残っていた。携帯電話が鳴り、画面には知らない番号が表示されていた。
電話に出ると、懐かしい声が聞こえた。
「恵理、俺だよ。健司」
彼女は台所に立ったまま、包丁をまな板の上で止めた。
その瞬間、十年分の委屈、羞恥、孤独が一気に押し寄せてきた。
だがそれ以上に強かったのは、恐怖だった。
なぜ健司が戻ってきたのか。
彼が戻れば、ようやく保ってきた生活をまた壊すのではないか。
沙也香は、そのとき何と答えたのかを尋ねた。
恵理は少し黙った。
「自分の道を行ってほしいと言いました」
声は低かった。
「もうお互い知らない者同士で、ちゃんと暮らそうって」
だが、健司は聞かなかった。
数日後、大輔が仕事で家を空けていた。
健司は藤原家の前に現れた。
十年前よりずっと老けていた。顎には剃り残しの髭があり、顔色もよくなかった。玄関先で何度も咳をする姿は、肺の奥に灰が詰まっているようだった。
扉越しに、彼は何度も恵理の名を呼んだ。
「恵理、開けてくれ」
家の中で、恵理は扉に背をつけて立っていた。
指は鍵の上にあった。
けれど動けなかった。
健司の声が柔らかくなった。
「この十年、お前がどれだけつらかったか知ってる。今度こそ大事にする。もう一度だけ、チャンスをくれ」
恵理は目を閉じた。
本当なら、その場で警察に電話すべきだった。
しかしその瞬間、十年のあいだ出口を失っていた言葉が、彼の声によって少しだけこじ開けられてしまった。
恵理は扉越しに言った。
「今さら戻ってきて、何になるの」
健司は外で低く頼み込んだ。
「一度だけ会わせてくれ。顔を見たら帰る」
恵理は、とうとう扉を開けた。
扉の外にいた男は、十年前のような勢いのある健司ではなかった。
扉の内側にいた女も、十年前のように甘い言葉だけで揺れる若い妻ではなかった。
それでも、健司の指が髪に触れたとき、恵理は揺れた。
そのぬくもりは、遠い場所から戻ってきたもののようだった。
また間違えている。
そうわかっていた。
それでも彼女は、一歩だけ前に出てしまった。
短い再燃は、すぐに新しい悪夢へ変わった。
健司は完全に変わっていた。
十年前に白倉を出たあと、彼は港南市やその周辺の現場を転々としていた。砂利置き場、解体現場、臨時の工事現場。いくつもの場所で働いた。
やがて肺を悪くし、重い仕事ができなくなった。
金は貯まらず、性格は少しずつ偏っていった。
彼は自分の失敗を、過去のあの出来事のせいにした。
藤原家のせいにした。
そして恵理のせいにした。
最初は、まだ優しい言葉を口にしていた。
やがて、夜になると藤原家の窓の外へ現れるようになった。
恵理は夜中に目を覚まし、窓の外に人影を見た。怖くなって窓に防犯格子をつけたが、安心できる日は来なかった。
庭で足音がするだけで、心臓が縮むようになった。
沙也香は彼女を見た。
「ずっと付きまとわれていたんですね」
恵理はうなずいた。
「戻ってきてから、健司は昔とは違いました」
震えた指を、彼女はすぐに押さえた。
「会うたびに、もう普通の人ではなくなっている気がしました」
恵理が本気で関係を断とうと思ったのは、ある朝だった。
子どもたちを学校へ送ったあと、下河原の細い道を歩いて帰っていた。道端の田には薄い氷が張り、遠くから小学校の朝の放送が聞こえていた。
健司は、道の角で彼女を待っていた。
姿を見た瞬間、恵理の中に嫌悪感が湧いた。
彼女は足を速めた。
「もう来ないで」
健司は追いつき、まだ笑っていた。
「なんで?」
恵理は立ち止まらなかった。
「私たちには、それぞれ家がある。こんなことを続けたらだめ」
健司の笑みが、ゆっくり消えた。
「お前が始めたくなったら始めて、やめたくなったらやめる。そんな都合のいい話があると思ってるのか」
彼は煙草の吸い殻を地面に捨て、靴底で踏みつぶした。
恵理を見る目が、急に荒くなった。
「子どもたち、何時に学校が終わるか知ってるぞ」
恵理は足を止めた。
健司は学校のほうへ視線を向けた。
「俺が校門で待っていたら、どうする?」
恵理の顔から血の気が引いた。
健司は近づき、声を低くした。
「俺から逃げたら、お前が一番後悔することをしてやる」
その日から、恵理は大輔に離婚を迫るようになった。
本当に子どもたちと離れたかったわけではない。
自分が藤原家から消えれば、健司が子どもを脅しに使うことはなくなるのではないか。
そう考えただけだった。
深夜、大輔が起こされたとき、まだ寝ぼけていた。
恵理は畳の端に座っていた。
顔色は紙のように白かった。
「離婚して」
大輔は目をこすった。
「こんな夜中に何を言ってるんだ。明日も子どもを学校へ送らないといけないだろ」
恵理は引かなかった。
「離婚して」
大輔はようやく少し目が覚めた。
彼は恵理を見つめたまま、長く黙った。
そのころ、恵理は何度も離婚を口にした。追いつめられた大輔は、ある日ぽつりと言った。
「海坂市内へ引っ越そう」
恵理は動きを止めた。
大輔はうつむき、低い声で続けた。
「子どもたちの学校も変える。俺は今までどおり走って、金を貯める。お前、小さな店をやりたいって言ってただろ。市内に移ったら、俺も手伝う」
恵理はその言葉を聞いても、心が軽くならなかった。
大輔が恨んでいないわけではない。
それでも最後の最後で、この家を壊し切れなかっただけだった。
だが健司は、彼らが逃げる時間を与えなかった。
二〇一七年一月、健司は再び藤原家へ入り込んだ。
その日の午後、恵理が家へ入ると、彼も後ろからついてきた。背後から抱きつかれた瞬間、恵理の体は固まった。
彼女は必死にもがき、最後に健司の腕に噛みついた。健司が手を緩めた隙に、恵理は彼を外へ押し出し、すばやく鍵をかけた。
鍵が落ちると、健司は外で罵声を浴びせ始めた。
その言葉は汚く、乱暴で、恵理が十年かけて隠してきた羞恥を、壁の隙間から引きずり出すようだった。
恵理は扉の内側で立ち尽くし、爪を手のひらに食い込ませた。
健司が急に声を張り上げた。
「子どもたち、もうすぐ帰る時間だろ」
家の中は静まり返った。
外で健司が笑った。
「開けないなら、俺が迎えに行ってやるよ」
恵理は勢いよく扉を開けた。
「いったい何がしたいの」
健司は奇妙な笑みを浮かべた。
「最近、金を持ってるらしいな」
「持ってない」
健司はポケットから折りたたみナイフを取り出し、わざと学校のほうへ目を向けた。
恵理は持っていた現金をすべて取り出し、彼に投げつけた。
「持っていって。すぐ帰って。もう二度と顔を見せないで」
健司は金を拾い上げ、褒められた子どものように笑った。
「昔の仲だろ。そんなに冷たくするなよ。これは先にもらっておく。次はもっと用意しておけ」
健司が去ったあと、恵理は庭に立ったまま、しばらく動かなかった。
田のほうから吹いてくる風は、刃物のように冷たかった。
そのとき初めて、彼女ははっきりと思った。
また来るなら、あの人が死ぬか、私が死ぬかだ。




