2.家に残された他人
不倫が露見した日、恵理は町の中心部から戻ってきたところだった。
玄関を開けた瞬間、何かがおかしいとわかった。居間には人が集まっていた。大輔の両親、恵理の実家の両親、そして前日の夜に仕事へ出たはずの大輔までいた。
大輔はソファに腰を下ろし、うつむいていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
恵理は玄関に立ったまま、指先が少しずつ冷えていくのを感じた。
「何があったの?」
先に顔を上げたのは、大輔の父だった。
顔色は鉄のように硬かった。
「自分が何をしたか、まだ言われないとわからないのか」
恵理の母は椅子に座り、目を赤くしていた。
それでも、娘のほうを見なかった。
義母が立ち上がり、震える声で言った。
「あなたと黒瀬健司は、どういう関係なの。今日、両家の前ではっきり話しなさい」
恵理は何も言えなかった。
大輔はその顔を見て、噂が事実だったのだと悟った。
自分が友人だと思っていた男が、本当に自分の妻と一線を越えていた。
大輔は突然立ち上がり、部屋の隅へ向かった。
そこには、薪割り用の斧が置かれていた。
家族たちは同時に彼を押さえた。大輔は正気を失ったように暴れ、目は真っ赤だった。
「あいつは俺を何だと思ってるんだ。俺は友達だと思ってたんだぞ。それなのに、恵理に手を出したのか」
大輔の母が必死に息子を抱きしめた。
「大輔、殺したら終わりだよ。戻ってこられなくなる」
恵理はその場に膝をついた。
自分に罪はないとは言わなかった。
ただ、大輔が健司のところへ行かないように願った。
その日、二つの家族は夜遅くまで居間に残った。
結局、誰も離婚を口にしなかった。子どもはまだ幼く、町の人間は互いをよく知っている。醜聞が完全に広がれば、夫婦だけでなく、子どもまで顔を上げて歩けなくなる。
藤原家は恵理に誓約書を書かせた。
今後、健司とは一切会わない。
それを約束させた。
それでも、藤原家の怒りは収まらなかった。
大輔の両親は、恵理に警察へ行くよう求めた。健司に強要されたと言えば、少なくとも彼に罰を与えられる。藤原家の面目も、少しは保てる。
恵理は白倉警察署へ行った。
だが、家族に言われたとおりには話さなかった。
警察官の前で、健司との関係は自分の意思だったと認めた。
警察署を出てから、大輔の母はほとんど恵理と口を利かなくなった。
恵理はそのことを沙也香に話すとき、静かな声だった。
「間違えたことは、間違えたことです。なかったことを、あったことにはできませんでした」
彼女は顔を上げた。
疲れた表情だった。
「もう大輔を裏切っていました。だから、これ以上嘘で誰かを巻き込みたくなかったんです」
その言葉に、沙也香はしばらく返す言葉を見つけられなかった。
恵理は確かに罪を犯した。
けれど、完全に底の抜けた人間ではなかった。
守った線もある。
しかし、自分の手で踏み越えてしまった線もあった。
健司はその後、白倉町を離れた。
港南市の砂利置き場で働いたという者もいれば、解体現場で日雇いをしていたという者もいた。いずれにせよ、藤原家の近くに彼が現れることはなくなった。
恵理は、時間が少しずつ何かを薄めてくれると思っていた。
だが、それは甘かった。
離婚はしなかった。
けれど、家に戻ったわけでもなかった。
下河原地区は狭い。町内会、農協、学校の保護者、理髪店、青果店。誰もが誰かを知っている。恵理はどこへ行っても、背中に視線を感じた。
それらの目は、何も言わない。
けれど細い針のように、彼女へ刺さってきた。
大輔も変わった。
殴ることはなかった。
追い出すこともなかった。
給料も、これまでどおり家に入れた。
だが、夫婦の会話はほとんどなくなった。家の用事は話す。子どもに金が必要なら渡す。それ以外の場面で、大輔は恵理を自分の生活から静かに外していった。
恵理は昼間、近くの温室で働き、農協の野菜の仕分け仕事も引き受けた。
ある日、温室で遅くまで働いていた。子どもたちも近くで遊んでいた。義母が悠斗に弁
当を持ってきたが、恵理の分はなかった。
悠斗は母親をかわいそうに思い、握り飯を半分残して差し出した。
それを見た義母は、その半分の握り飯を取り上げ、畜舎のそばの飼料桶へ放り込んだ。
恵理は温室の入口に立ち、白い米粒が飼料の中へ沈んでいくのを見ていた。
怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、その瞬間にはっきりわかった。
自分はまだ藤原家に住んでいる。
けれど、もう家族ではないのだと。
沙也香がその十年について尋ねたとき、恵理の表情は空っぽだった。
一日や二日の冷たさではなかった。
十年だった。
大輔はもう、寒くないかとも、疲れていないかとも聞かなかった。子どもが病気になれば一緒に病院へ行く。けれど道中、会話はほとんどなかった。
正月には料理を並べる。
親戚も来る。
それでも恵理は、そこに座るたび、自分だけが一時的に場所を借りているような気がしていた。
彼女は本気で償おうとした。
洗濯をした。
料理をした。
働いて金を入れた。
子どもたちの世話をした。
だが、償いは一人が頭を下げ続ければ成立するものではない。
大輔は、本当には許していなかった。
藤原家も、本当には彼女を迎え入れていなかった。
子どものため。
世間体のため。
生活を続けるため。
ただそれだけの理由で、あの出来事を押し込めていた。
十年が過ぎ、埃は厚く積もった。
それでも、下に埋められたものは消えていなかった。




