【戻ってきた愛人】二度目に愛した男は、悪夢になった 1.四十回斬られた夜
二〇一七年一月二十四日の夜、白倉町下河原地区から一一〇番通報が入った。
通報してきたのは女だった。
声は妙に平坦で、受理した通信指令員は最初、自分が聞き間違えたのかと思ったという。
家で人が死んでいる。
殺したのは自分だ。
夫もそばにいる。
白倉警察署の警察官が藤原家に到着したとき、古い民家の明かりはまだついていた。
居間の床には血が広がり、倒れていた男はすでに息をしていなかった。最初に現場へ入った若い警察官は、玄関先で数秒、足を動かせなかった。
被害者の頭部と上半身には、何度も攻撃を受けた痕があった。後の司法解剖で、致命傷を負ったあとにも複数の傷が加えられていたことがわかった。
それは、ただの殺人というより――
長い年月をかけて積もった感情が、一夜で爆発したような現場だった。
居間の隅には、夫婦が座っていた。
藤原恵理の服は血に染まり、そばには包丁が置かれていた。夫の大輔は壁にもたれるように座り、足元には血のついた鉄パイプが転がっていた。
大輔は逃げようともせず、言い訳もしなかった。
ただ何度も、恵理のほうを見ていた。
警察官が尋ねた。
「通報したのは、あなたですか」
恵理は顔を上げた。
「はい」
「倒れている男性は?」
彼女の視線が男の顔へ移り、すぐに離れた。
「黒瀬健司です」
大輔がふっと目を閉じた。
その名前は、藤原家の中で十年間、沈められていた。
そして今、最も凄惨な形でこの家へ戻ってきた。
黒瀬健司、三十五歳。
白倉町下河原地区の出身。
十年前、彼は大輔の友人だった。
そして、恵理のかつての愛人だった。
前田沙也香が取材資料を受け取ったとき、最初のページに載っていた現場写真を見て、しばらく紙の端から指を離せなかった。
警察資料には、事件後、二人の容疑者は現場から逃げなかったと記されていた。
自ら通報し、警察が来るのを待っていた。
これは、単なる突発的な殺人には見えなかった。
十年遅れで崩れ落ちた、ひとつの家庭の残骸のようだった。
沙也香が恵理に会ったとき、彼女はすでに拘置所にいた。
長かった髪は短く切られ、写真で見たころよりずっと痩せていた。それでも、若いころは美しかっただろう面影は残っていた。
沙也香が録音機を机に置くと、恵理はそれを見つめたまま、長く黙っていた。
やがて、ようやく口を開いた。
「全部、十年前のあの酒の席から始まったんです」
十年前、藤原大輔は長距離トラックの運転手だった。
物流会社の下請けで、長距離の路線を走っていた。一度出れば短くても二、三日、長いときは一週間ほど家に戻らなかった。大輔は口数の少ない男で、帰宅してもいつも疲れ切っていた。
食事をして、風呂に入り、畳に横になると、すぐに眠ってしまう。
恵理は、夫が大変なのはわかっていた。
けれど、わかっていることと、寂しさが消えることは別だった。
あのころの恵理はまだ若く、息子の悠斗も幼かった。昼は家のことをし、夜は夫の帰りを待つ。けれど大輔が持ち帰ってくるのは、高速道路の疲労と軽油の匂いばかりだった。
気の利いた言葉など、ほとんどなかった。
そんな時期に、健司が藤原家へ入ってきた。
その夜、大輔は健司を家に呼び、酒を飲んだ。若いころの健司はよく喋る男で、場を明るくするのがうまかった。恵理が料理を運んでくると、健司の視線は一瞬だけ彼女の顔に止まり、何事もなかったように外れた。
大輔は気づかなかった。
彼は健司の肩を叩き、いつもより多く酒を飲んでいた。
「健司、お前もそろそろ落ち着けよ。いつまでも一人でふらふらしてないでさ。今度、恵理にいい人でも紹介してもらえ」
健司は杯を持ち上げ、軽く笑った。
「じゃあ、恵理に頼むかな。条件は高くないよ。恵理の半分くらいいい人なら十分」
恵理は温め直した料理を卓に置いた。
「実家のほうに、感じのいい子なら何人かいるよ。機会があったら聞いてみるね」
大輔は笑いながら、恵理の肩を軽く抱いた。
そのとき、彼は卓の下を見ていなかった。
健司が帰るとき、彼が恵理を振り返ったことにも気づいていなかった。
恵理は目をそらさなかった。
後になって彼女は何度も思った。
あのとき視線を外していれば、何かが違っていたのかもしれない。
けれどそのときの恵理は、そうしなかった。
二度目に会ったのは、大輔が仕事に出た翌朝だった。
トラックが藤原家の前から走り去って間もなく、健司は裏庭のほうへ回ってきた。まるで時間を測っていたように、戸を二度だけ叩いた。
恵理は家の中に立ったまま、すぐには開けなかった。
開けてはいけないと、わかっていた。
けれど扉の向こうから低い声で名前を呼ばれたとき、彼女の手は鍵へ伸びていた。
二人は多くを話さなかった。
大人が越えてはいけない一線は、ときに沈黙だけで越えられてしまう。
その日から、二人は大輔に隠れて会うようになった。健司は恵理を褒め、笑わせ、大輔はお前のよさをわかっていないと言った。
恵理は、それが進んではいけない道だと知っていた。
それでも、何度もその道を選んだ。
後に、彼女は沙也香に言った。
「自分が悪いことをしているのは、わかっていました」
恵理はうつむき、袖口を指でつまんだ。
「あのころ、健司は言葉をくれたんです。笑わせてくれた。家では、そんな言葉をずっと聞いていませんでした」
沙也香は何も言わなかった。
その言葉には、寂しさがあった。
同時に、身勝手さもあった。
その二つが、後に彼女の家を壊していくことになる。




