4.薪割り用の鉈
事件当日、志貴はひどく静かだった。
修一は家の中で夕食を取っていた。庭のほうから、志貴が薪置き場を探る音が聞こえた。薪割り用の鉈は、普段から小屋のそばに置いてある。薪を割ったり、枝を落としたりするためのものだった。
下河原には古い家が多く、そうした道具が家にあること自体は珍しくなかった。
志貴が玄関先から声をかけた。
「父さん、うちの鉈、どこに置いてありますか」
修一は部屋の中から答えた。
「薪のところだ。何に使うんだ」
「ちょっと」
修一は眉を寄せた。
「どこへ行く」
志貴は振り返らなかった。
「出てきます。夜は自分で食べてください」
修一が立ち上がったとき、志貴はすでに鉈を持って庭を出ていた。
父と子が普通に言葉を交わしたのは、それが最後になった。
志貴は原付に乗り、白倉町の中心街へ向かった。
はっきりした計画はなかった。
自分が本当に誰を救えるのかも、考えていなかった。
頭の中で繰り返されていたのは、紗織の顔の傷だった。
黒岩の「あいつを殺す」という声だった。
そして十五歳のあの夏、紗織が近づいたときの温かさだった。
志貴は、自分を人を救いに行く者だと思い込んだ。
手にした鉈が、正義のためのものだと思った。
けれど正義は、刃物の中にはない。
深夜、国道沿いの小道で、彼は黒岩と紗織を待った。
それからの数分間で、十年間にあったはずの出口はすべて断ち切られた。
血は悪夢を終わらせなかった。
志貴を、さらに深い場所へ押し込んだだけだった。




