3.小さな町の脅し
黒岩海斗は、白倉町ではよく知られた男だった。
小さな土木会社を経営し、解体、砂利運搬、臨時の工事などを請け負っていた。町の者は、黒岩を面倒な相手だと知っていた。黒いワゴン車が誰かの家の前に停まるだけで、多くの意味は伝わった。
最初のころ、黒岩は紗織に優しかった。
中心街へ食事に連れて行った。
家の困りごとを処理してくれた。
藤沢正樹が長距離輸送で家を空けているあいだ、紗織に「守られている」という錯覚を与えた。
紗織が最初に選ぼうとしたのは、たしかに黒岩だった。
若く、金もなく、しかも親戚筋の禁忌を背負う志貴より、黒岩のほうが空虚な結婚生活から連れ出してくれるように見えた。
しかし、黒岩の優しさには支配が混じっていた。
彼は紗織が自由に離れることを許さなかった。
志貴と会うことも許さなかった。
その関係が決定的に露見したのは、ある夕方だった。
紗織は黒岩の家で料理を並べ、二人で酒を飲みながら食事をしていた。そこへ突然、玄関の扉が開いた。志貴が立っていた。
外の冷たい空気をまとったまま、彼は部屋の中を見た。
黒岩は一瞬だけ驚いた。
だがすぐに笑った。
「志貴か。何年ぶりだ? せっかくだから食っていけよ」
紗織の顔は白くなった。
志貴は座らなかった。
「紗織さんに用があって来ました」
黒岩は箸を置き、細い目で二人を見た。
紗織は座ったまま、立つこともできず、座り続けることもできなかった。志貴へ向けた目は、ほとんど哀願に近かった。
だが志貴は退かなかった。
「紗織さん、外へ。話があります」
紗織は立ち上がるしかなかった。
黒岩へ向き直り、無理に言い訳を作った。
「志貴の家で何かあったみたい。ちょっと見てくるから、先に食べてて」
黒岩は引き止めなかった。
ただ食卓に座ったまま、二人が出ていくのを見ていた。扉が閉まると、手にしていた箸をゆっくり折った。
乾いた音が、部屋の中で二度鳴った。
その日、黒岩はすべてを察した。
黒岩は、まず志貴のもとへ行った。
ある日、志貴が原付で白倉町の中心街へ向かっていたとき、脇道から黒いワゴン車が飛び出してきた。原付ははねられ、志貴は道路に投げ出された。
まだ起き上がる前に、黒岩が車から降りてきた。
彼は志貴を見下ろした。
「覚えておけ。二度と紗織に近づくな」
志貴は片腕を押さえた。
擦り傷から血がにじんでいた。
黒岩は笑った。
「今日はブレーキの調子が悪かっただけだ。次はどうなるか、俺にもわからないな」
その後、黒岩は西森家にも来た。
修一は庭で農具を片づけていた。黒岩は玄関先に立ち、短刀のようなものを手にしたまま、世間話でもするような口調で言った。
「息子をちゃんと見ておけ」
修一が顔を上げた。
黒岩は古い納屋へ視線を向けた。
「あいつがまた紗織に近づいたら、この納屋に火をつける人間を探す。古い木造だ。よく燃えるだろうな」
後に沙也香の取材を受けた修一は、両手を膝に置いたまま、ゆっくり話した。
「前から、何かあるとは思っていました。黒岩が家に来たあの日、確信しました」
沙也香は尋ねた。
「そのあと、どうされたんですか」
修一は苦く笑い、目を赤くした。
「あいつを殴りました。本家筋の人の奥さんですよ。何をしてるんだ、と」
彼はうつむいた。
「あのとき、本当に足を折るくらい殴っておけばよかった。そうすれば、命だけは助かったのかもしれない」
黒岩の脅しで、三人の関係は奇妙に変わっていった。
紗織は志貴を遠ざけるようになった。
志貴も父を脅されたことで、簡単には会いに行けなくなった。だが、それで終わったわけではない。
押し込められた感情。
恐怖。
悔しさ。
それらは見えない場所で、少しずつ濃くなっていった。
黒岩は、自分がすべてを支配したと思っていた。
紗織が、もう一つの秘密を知るまでは。
志貴を取材する前、沙也香は藤沢紗織にも会っていた。
紗織は淡い青色の囚衣を着ていた。額のあたりには白髪が混じり、資料にあった「二人の男を狂わせた女」という印象はなかった。目の前にいるのは、疲れきった中年の女性だった。
沙也香が志貴との最初の関係について尋ねても、紗織は黙っていた。
しかし話が黒岩に及ぶと、ようやく口を開いた。
「あの人は、優しかったんです。気が回るし、面倒見もよかった」
沙也香は尋ねた。
「二人のうち、当時あなたが離れたいと思っていたのは、どちらでしたか」
紗織はほとんど迷わなかった。
「志貴です」
その答えは早すぎた。
早すぎたからこそ、不自然だった。
本当に志貴と切れるつもりだったのなら、なぜ事件後に彼を逃がし、現場を隠したのか。
答えは、黒岩の携帯電話にあった。
ある日、黒岩が紗織の部屋でシャワーを浴びていた。テーブルに置かれていた携帯が一度光った。紗織は何気なく手に取り、画面を見た瞬間、血の気を失った。
送信者は、彼女の姉、片桐美紀だった。
画面には短いメッセージが表示されていた。
「会いたい。今夜、来られる?」
紗織はその場で立ち尽くした。
指先が冷たくなっていく。
黒岩がバスタオルを巻いて出てきたとき、彼女が携帯を握っているのを見て、表情を変えた。
「話せばわかる」
紗織は携帯を彼の前へ突き出した。
「美紀姉さんと、どういうこと?」
黒岩は最初こそ言い逃れようとした。
だが隠しきれないとわかると、面倒くさそうな顔をした。
「俺は男だぞ。そんなことで騒ぐな」
その言葉は、紗織の顔を平手で打ったようだった。
「私にも来て、姉にも行ってたの? よくそんなことができるね」
黒岩は小さく笑った。
「妬いてるのか」
「誰が。自分を何だと思ってるの」
紗織は携帯をテーブルへ叩きつけた。
「もう来ないで。志貴にも近づかないで。あなたはあなたの生活をして。私は私の生活に戻る」
黒岩の顔から、ゆっくり笑みが消えた。
彼は紗織の前に立ち、指先で彼女を指した。
「美紀は俺のために離婚した。あいつは俺についてくる。お前も勝手に降りられると思うな。俺が呼んだら来い」
紗織は彼を見上げた。
体が少しずつ硬くなっていく。
「おかしいよ、あなた」
黒岩は声を低くした。
「またあの貧乏な小僧のところへ行くつもりなら、あいつを殺す。試してみろ」
紗織はテーブルの花瓶をつかみ、黒岩へ投げつけた。
黒岩はそれを避けると、彼女を床へ突き飛ばした。
翌日の夕方、紗織は西森家へ行った。
志貴が扉を開け、彼女の顔の傷を見た瞬間、動きを止めた。
「誰にやられたんですか」
紗織は答えなかった。
志貴は彼女の腕を取った。
「警察へ行きましょう」
紗織は振りほどいた。
「行けるわけないでしょう。正樹に知られたら、私はどうなるの。下河原で何を言われるかわからない」
「じゃあ、このまま殴られ続けるんですか」
紗織の目が赤くなった。
「別れられるわけない。私が離れると言ったら、あの人は私もあなたも許さない」
彼女はうつむいた。
声は切れそうなほど細かった。
「これは私への罰なのかもしれない。もう、どうしていいかわからない」
志貴は彼女を見ていた。
紗織が近づいてきたとき、彼は押し返せなかった。
その瞬間、志貴は十五歳のころへ戻った。
紗織は、唯一自分へ近づいてくれた人だった。
そして今は、自分だけが守れる人のように見えた。
紗織は彼の胸に顔を寄せた。
「もう逃げ道がないの」
志貴の手が、ゆっくりと彼女の背中へ回った。
「泣かないで。一緒に考えましょう」
だがそのとき彼が考えた方法は、最初から血へ向かっていた。




