2.十五歳の越境
決定的に線を越えたのは、ある土曜日だった。
その日、志貴の父は隣町へ倉庫の修理を手伝いに行っており、夜まで戻らない予定だった。志貴は同級生二人を家に呼び、人数をそろえて遊ぶつもりでいた。ところが夕方になって、
二人とも来られなくなった。
一人は恋人に会いに行った。
もう一人は、家の用事だと言った。
志貴は庭に立ち、自分だけが置いていかれたような気持ちになった。
そのあと、彼は隣の家へ紗織を呼びに行った。
紗織は、菓子と缶ビールを入れた袋を提げてやって来た。玄関から部屋の中をのぞき、少し不思議そうな顔をした。
「あれ、友達は?」
志貴は気まずそうに笑った。
「来ないって。みんな、彼女優先なんですよ」
紗織は袋をテーブルに置き、いつものように笑った。
「じゃあ、二人で食べようか」
志貴はその日、酒を飲んだ。
十五歳の少年には、失恋の恥ずかしさや怒りをどう処理すればいいのかわからなかった。缶ビールを二本飲むころには顔が熱くなり、普段は隠している感情が少しずつこぼれた。
彼は、自分を振った同級生の話をした。
声には悔しさが混じっていた。
「あいつ、どうして俺じゃだめだったんだろう。二組のあいつの何がいいんだよ」
紗織は隣に座ったまま、彼の話を最後まで聞いた。
「あの子が、あなたのよさをわかっていないだけよ」
志貴が顔を上げた。
紗織の視線は、彼の顔にまっすぐ向けられていた。
彼女は目をそらさなかった。
「私は、ずっといい子だと思ってたよ」
家の中は静かだった。
外では夏の終わりの蝉が鳴き、台所の冷蔵庫が低くうなっていた。志貴は、そのときの空気を覚えていた。紗織が近づいたときのシャンプーの匂いも、自分が急に息をするのを忘れたことも覚えていた。
その日を境に、彼はもう紗織をただの年上の女性として見ることができなくなった。
もっと恐ろしかったのは、紗織もその夜を過ちとして扱わなかったことだった。
彼女はそれまでと同じように西森家へ来た。
同じように志貴の名前を呼んだ。
同じように、乱れた襟を直してくれた。
けれど誰にも見えないところでだけ、彼にしかわからない目を向けた。
拘置所で沙也香がそのことに触れたとき、志貴は最後まで年齢をはっきり言わなかった。
「十年くらい前です。僕、今年で二十四なので」
沙也香は数秒沈黙した。
「十四歳か、十五歳だったということですね」
志貴の唇がわずかに動いた。
「何もわかっていませんでした。夢みたいで」
彼はうつむいた。
「本当に夢だったらよかったのに」
しかし、それは夢ではなかった。
大人が越えてはいけない線を越えた現実だった。
そして志貴がその後の十年間、ほどくことのできなかった最初の結び目でもあった。
その関係は、志貴が白倉町を離れたことでいったん途切れた。
中学を卒業すると、彼は県外へ働きに出た。最初は物流倉庫で仕分けをし、その後は工事現場の短期作業にもついた。その四年間、紗織には連絡しなかった。
白倉町の夏。
西森家の庭。
紗織の声。
それらは、志貴が遠くへ押し込めたものだった。
自分はもう抜け出したのだと思っていた。
四年後、志貴は白倉町へ戻った。
そのころ、彼には小川遥という恋人がいた。県外で友人と食事をしたときに知り合った女性で、年齢も近く、明るい性格だった。付き合ってまだ長くはなかったが、周囲には結婚するのではないかと言う者もいた。
紗織は、その話を聞いて志貴に会いに来た。
西森家の玄関先に立つ彼女は、数年前と大きく変わっていないように見えた。ただ、目元には細いしわが増え、笑顔には言葉にしづらい疲れが混じっていた。
志貴は彼女を見た瞬間、心の奥の扉がまた少し開くのを感じた。
「今度は、また出ていくの?」
志貴は彼女を長く見なかった。
「しばらくは、こっちにいます」
紗織は目を伏せた。
「彼女ができたって聞いた」
志貴はうなずいた。
「まだ付き合い始めたばかりです」
「好きなの?」
志貴は少し黙った。
「いい子です。かわいいし」
紗織の表情が、ほんの一瞬こわばった。
「外で知り合った子って、気持ちがふらふらしていることもあるでしょう。よく考えたほうがいいよ」
志貴はようやく顔を上げた。
「俺と遥は合わないって言いたいんですか」
紗織は目をそらした。
「そういう意味じゃない。あなたのために言ってるだけ」
志貴は彼女を見つめた。
ふと、別の噂を思い出した。
「じゃあ、黒岩海斗とはどうなんですか。本当なんですか」
紗織の指が服の裾を握った。
「違うの。ただ一緒に麻雀をしたり、困ったときに手伝ってもらったりしているだけ」
志貴はそれ以上問い詰めなかった。
しかし顔色は、少しずつ冷たくなった。
「黒岩がどういう人間か、知らないわけじゃないでしょう。白倉町で工事関係の仕事をしていて、誰もあの人には逆らいたがらない。関わったら、絶対に面倒なことになる」
紗織はゆっくり顔を上げた。
「心配してくれてるの?」
志貴は顔を背けた。
「違います」
紗織は一歩近づき、彼の腕をつかんだ。
「じゃあ、私が誰といようと関係ないでしょう。嫉妬してるんじゃないの?」
志貴はその手を振り払った。
「してません」
だがその声は、あまりにも弱かった。
自分自身でさえ信じられないほどに。
大人になってからの再会は、二人を清醒にはしなかった。
志貴は十八歳を過ぎていた。この関係が最初から歪んでいたことも、わかっていた。それでも紗織が涙を見せると、彼は十五歳のころへ戻ってしまった。
母を知らず、誰かに優しく見つけてもらいたかった少年が、まだ彼の中に隠れていた。
沙也香は後に尋ねた。
「そのころも、罪悪感はありましたか」
志貴はうなずいた。
「ずっとありました」
「それでも続けたのは、どうしてですか」
彼は長く考えた。
「紗織さんが壊れていくのを見たくなかったんです。普通の生活に戻してあげたかった」
沙也香は彼を見つめた。
「黒岩さんから離れさせて、そのあと自分も離れるつもりだった。そうして、彼女を本来の生活に戻したかったということですか」
志貴は何も言わなかった。
しばらくして、わずかにうなずいた。




