【人倫禁忌恋事件】少年を壊した十年越しの禁忌恋 1.深夜の原付バイク
二〇一七年八月のある深夜、白倉町の中心街はすでに静まり返っていた。
国道沿いのラーメン店が最後の客を送り出したあと、街灯だけが人気のない道路を白く照らしていた。黒岩海斗と藤沢紗織は店を出たばかりで、まだ小さな声で笑い合っていた。黒岩は酒を飲んでいて、足取りが少し重かった。
紗織は彼の隣を歩き、手には上着を持っていた。
その道は、夜になるとほとんど人が通らない。
二人が河川敷へ続く細い道へ曲がろうとした瞬間、背後から耳障りなエンジン音が近づいてきた。
原付バイクが、二人の前に荒く横づけされた。
ヘッドライトが揺れ、乗っていた青年の顔を照らす。
西森志貴だった。
黒岩は彼を見ても、それほど驚かなかった。むしろ、うんざりしたように口元を歪めた。
紗織の顔からは、一瞬で血の気が引いた。
この二人がいつかぶつかることは、彼女にもわかっていた。
ただ、それがこんな夜になるとは思っていなかった。
黒岩が一歩前へ出た。
「俺が行く前に、お前のほうから来たのか」
志貴は何も言わなかった。
両手を体の横に垂らし、指だけを強く握っていた。
黒岩は彼を見下ろした。
声には酒の匂いと、わずかな嘲りが混じっていた。
「俺に怖さを教えるつもりか?相手を間違えてるぞ、小僧」
その直後、黒岩の足が志貴の腹を蹴った。
志貴はバイクごと路肩に倒れ、手のひらをアスファルトにこすりつけた。紗織は反射的に半歩動いたが、その場で固まった。黒岩は拳を振り上げ、志貴へ近づいていった。
彼を迎えたのは、薪割り用の鉈だった。
夏の夜気が、その瞬間だけ裂けたように感じられた。
黒岩は一瞬、何が起きたのかわからない顔をした。次の瞬間、低いうめき声を漏らした。志貴には、紗織の声も、目の前の男の表情も届いていなかった。
ただ、何度も鉈を振り下ろした。
刃が骨を打つ鈍い音と、倒れた黒岩の荒い息が混ざり、見慣れたはずの小道は別の場所のようになっていった。
「やめて!志貴、もうやめて!」
紗織の声は夜風に裂かれた。
志貴は止まらなかった。
黒岩が完全に動かなくなったあと、ようやく我に返ったように立ち尽くした。顔には血がついていた。手にした鉈の先からは、まだ赤いものが落ちていた。
彼は地面の男を見下ろしていた。
その目は、空っぽだった。
紗織が駆け寄り、志貴の手首をつかんだ。
「行って」
志貴はぼんやりと彼女を見た。
「俺が行ったら、紗織さんはどうするんですか。一緒に来てください」
紗織は彼を強く押した。
「こんなときに何を言ってるの。早く行って!」
志貴は彼女を見つめた。
唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
数秒後、彼は原付バイクにまたがり、エンジンをかけた。耳に残る音が河川敷の道を遠ざかり、やがて暗闇に溶けた。
紗織はその場に立ち尽くしていた。
耳の奥には、まだあのエンジン音が残っている。
辺りに人影はなかった。
紗織は地面の黒岩を見下ろし、呼吸を速くした。しばらくして、歯を食いしばり、彼の体を道路脇の植え込みへ引きずった。黒岩は重く、靴底がアスファルトに暗い跡を残した。
彼女は低い枝を何本か折り、乱暴にその体へかぶせた。
それを終えると、胸の前で両手を合わせ、植え込みの影へ軽く頭を下げた。
「海斗、許して」
紗織は二度と振り返らず、反対方向へ走った。
翌朝、道路脇の植え込みで清掃員が黒岩海斗を発見した。
頭部と肩には複数の傷があり、現場には血が広がっていた。白倉警察署はすぐに殺人事件として捜査を始めた。その日の夕方、西森志貴は逮捕された。四日後、犯人を逃がし、事実を隠した疑いで藤沢紗織も身柄を確保された。
前田沙也香が取材依頼を受けたとき、最初は三角関係による衝動的な殺人だと思っていた。
だが警察資料を読み終えたあと、彼女はしばらくファイルを閉じることができなかった。
この事件には、十年分の絡まりがあった。
そして、十五歳のころから一歩も出られなかった少年の夜があった。
沙也香が拘置所で志貴に会ったとき、彼は二十四歳だった。
見た目は、驚くほど普通の青年だった。短い髪は清潔に整えられ、顔立ちは端正で、話し方にはまだ少し照れが残っていた。手に戒具がなければ、深夜に鉈を振るった殺人犯だとは思えなかったかもしれない。
志貴が席に着くと、沙也香はマイクの位置を直した。
彼は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
沙也香は向かいに座り、録音機をつけた。
「あなたと藤沢紗織さんは、同じ地域の出身なんですよね」
志貴は目を伏せた。
少ししてから、うなずいた。
「白倉町の下河原です。家は二十メートルくらいしか離れていませんでした」
沙也香は資料へ視線を落とした。
「親戚筋にあたる方、という理解でいいですか」
志貴の喉が小さく動いた。
「紗織さんの夫は、西森家の本家筋にあたる人でした。下河原の昔の感覚で言えば、僕は彼女を紗織さんと呼ぶ立場でした」
数秒、間が空いた。
志貴の声はさらに低くなった。
「でも、僕にとっては、ただの親戚ではありませんでした」
志貴が二歳のとき、母親は病気で亡くなった。
父の西森修一は、男手一つで彼を育てた。修一は不器用な男で、優しい言葉をかけるのが得意ではなかった。昼は畑仕事や日雇いに出て、夜に帰ってくると、体には汗と土の匂いがついていた。
家には、女性がいなかった。
細かな世話のあちこちに、いつも空白があった。
そのころ、紗織はよく西森家に現れた。
藤沢正樹と結婚していたが、夫は県外で長距離輸送の仕事をしており、家にいない日が多かった。昼間の時間を持て余した紗織は、西森家へふらりとやって来た。
制服の取れかけたボタンを縫ってくれた。
試験の前には、おにぎりを差し入れてくれた。
修一が留守のときには、庭に干してあった洗濯物を取り込んでくれることもあった。
当時の志貴は、彼女を大人として見ていなかった。
紗織は、姉のようだった。
そして、ときには遅れて現れた母親のようでもあった。
沙也香は静かに尋ねた。
「その温かさは、当時のあなたにとって大きかったんですね」
志貴はすぐには答えなかった。
机の表面を見つめながら、遠い日の庭を見ているようだった。
「大きかったです」
そのころの志貴は、まだ中学生だった。
下河原では家同士の距離が近く、誰の家の子がどこの大人と話していても、いちいち問題にはされなかった。紗織は夕方まで西森家にいることもあり、志貴の学校の話を聞いたり、好きな子がいるのかとからかったりした。
ある日、志貴は携帯電話を握ったまま返信を打っていた。
紗織が横からのぞき込み、笑いながら手を伸ばした。
「誰に送ってるの? ちょっと見せてよ」
志貴は慌てて携帯を握り込んだ。
「何でもないです」
紗織はさらに顔を近づけた。
「好きな子?」
志貴の顔は、すぐ赤くなった。
「そんなんじゃないです。ただ話してるだけです。父さんには言わないでください」
紗織は笑った。
「言わないわよ。かわいい子?」
志貴は下を向いたまま、口元を少し緩めた。
「まあ……普通に」
何年もあと、拘置所でこの場面を思い出すたび、志貴は長く黙った。
あのころの彼は、自分の中の欠けた場所が、危うい温かさで満たされつつあることに気づいていなかった。




