5.酒屋の女
篠原朱里は、小さな酒類雑貨店を営んでいた。
店は北沢駅前商店街の奥にあった。昼は酒やたばこ、日用品を売り、夜は常連客のために店を開けていることもあった。店は広くない。奥には狭い休憩室があり、慎吾は何度もそこで夜を過ごしていた。
朱里が海坂中央署へ呼ばれたとき、取調室に入っただけで足元が崩れた。
慎吾のような落ち着きはなかった。
長く否認しようともしなかった。
秦野が紙片を机に置くと、彼女の顔から血の気が引いた。百万円という文字を見つめたまま、朱里はようやく悟った。
慎吾は、ここまで来ても自分を守ろうとしていたのではない。
ただ、黙らせたかっただけだ。
そして最後に、自分から金まで取ろうとしていた。
朱里は机の縁に両手を置いた。
長いあいだ顔を上げなかった。
「私です」
秦野は何も言わなかった。
朱里の声は少しずつ低くなった。
「あの夜、私もいました」
朱里は、慎吾と知り合ってまもなく彼にのめり込んだ。
慎吾は優しかった。店の酒箱を運んでくれた。雨の日には熱い缶コーヒーを買ってきた。妻とはもう終わっている、子どもが小さいからすぐには切れないだけだと言った。
朱里は信じた。
やがて妊娠し、子どもを産んだ。
慎吾は彼女に正式な立場を与えなかった。
それでも店には来た。子どもを抱くこともあった。夜、隣で眠りながら、いずれどうにかすると言った。
朱里はその言葉だけで、自分を支えていた。
いつか本当に、自分のもとへ戻ってくる。
そう思っていた。
慎吾のそばに、もう一人の女がいると知るまでは。
源氏名はリカ。
本名は、松永美麗。
美麗は朱里より華やかで、目立つ女だった。慎吾に妻がいることも、朱里の存在も知っていた。それでも退く気はまったくなかった。
彼女が欲しかったのは、慎吾が本当に離婚し、すべての女を片づけ、自分だけを選ぶことだった。
事件の三日前、美麗は朱里の店に現れた。
短い上着を着て、耳元の小さな鈴が歩くたびに鳴った。彼女はレジカウンターの前に立ち、朱里の顔を見た。棚を見た。さらに店の奥にある休憩室へ視線を送った。
まるで、いずれ自分が踏みつぶす場所を眺めているようだった。
「あなたが朱里?」
朱里はカウンターの端を握ったまま、何も答えなかった。
美麗は小さく笑った。
「かわいそうなふり、やめたら。慎吾はあなたのものじゃない」
その日、朱里は彼女の前で頭を下げた。
自分は離れる。
店も手放す。
子どもを連れてどこかへ行く。
そう言った。
美麗はしばらく朱里を見つめ、最後には勝った女の顔で店を出ていった。
朱里は、それで終わると思った。
翌朝、慎吾は美麗を連れてまた店に来た。
美麗が店内の棚を気ままに見ている隙に、慎吾は朱里のそばへ来た。声は歯の間に押し込めたように低かった。
「あいつは知りすぎてる」
朱里の手が震え、カウンターのコップに触れそうになった。
慎吾は車のトランクを開け、布に包まれた園芸用の鉈を見せた。
その瞬間、朱里は理解した。
慎吾が言う「どうにかする」とは、そういう意味だった。
彼女はうなずかなかった。
警察へ行くこともしなかった。
その沈黙が、後の夜への入口になった。




