3.手近にあった鉈
慎吾は、事件当日の夜、美麗と住んでいた部屋で口論になったと話した。
美麗はかなり酒を飲んでいた。顔を赤くし、言葉はどんどん荒くなった。慎吾に白倉町へ戻って離婚しろと迫り、妻も子どもも捨てろと言った。
慎吾は、できないと繰り返した。
けれど美麗は聞かなかった。
取調べ映像の中で、その場面を話す慎吾の声は低かった。
「あいつがずっと罵ってきて、頭に血が上った。そばにあった園芸用の鉈を手に取って、そのまま振り下ろした」
法医学上の所見は、彼の供述と一部一致していた。
死者の首には、深い刃物傷が二か所ある。一般的な包丁でできる傷には見えなかった。慎吾が案内した遺棄場所も、実際の遺体発見状況と矛盾しない。
ただし、問題もあった。
犯行現場は、もう存在していなかった。
当時二人が住んでいた古いアパートはすでに取り壊され、跡地には高層マンションが建っていた。
血痕も、現場痕跡も、追加の物証も取れない。
凶器も見つからなかった。
慎吾は、園芸用の鉈をその夜のうちに車で持ち出し、青川の河川敷の草むらへ捨てたと話した。国道と県道を当てもなく走っていたので、正確な場所は覚えていないという。
警察は、彼の供述と道路、河川の位置から捜索範囲を絞った。
それでも凶器は見つからなかった。
一か月ほど経ったころ、検察は起訴の準備を進めていた。
だが秦野の胸には、ずっと引っかかりが残っていた。
物証と供述は、一応つながっている。慎吾は認めている。遺棄場所も案内した。殺害も遺棄も、自分がやったと話している。
それでも、順調すぎた。
秦野は取調べ映像を何度も見返した。
ある場面で、ふと停止ボタンを押した。
映像の中で、慎吾はこう言っていた。
「そばにあった園芸用の鉈を手に取った」
秦野は、その一文を見つめた。
顔つきが少しずつ変わっていった。
問題は、「そばにあった」という部分だった。
手近にあったということは、その鉈は犯行現場に最初から置かれていたことになる。だが当時の住まいは普通のアパートだった。農家ではない。庭もない。
慎吾にも美麗にも、園芸の趣味はなかった。
普通の部屋に、どうして園芸用の鉈が手近に置かれているのか。
秦野は周囲への聞き込みをやり直させた。
返ってきた内容は、予想通りだった。
慎吾は花を育てない。木を剪定する習慣もない。工具を集める趣味もない。美麗も同じだった。歯が弱く、硬いものを避けていたという話まで出た。
凶器の存在は、あまりに不自然だった。
秦野は机に指を置いたまま、低く言った。
「彼は嘘をついている」
若い刑事が顔を上げた。
「でも、本人はもう認めています」
秦野は首を横に振った。
「認めるのが早すぎる。何かを隠すために、先に扉を閉めようとしている可能性がある」
慎吾は拘置所に入って一か月以上経っても、憔悴していなかった。むしろ妙に落ち着いている。控訴はしないと繰り返し、裁判がいつ始まるのかまで聞いていた。
裁きを恐れているようには見えなかった。
早くすべてを終わらせたいように見えた。
秦野は、ようやく自分の違和感の正体をつかんだ。
慎吾は、ただ罪を認めたのではない。
急いで扉を閉めたのだ。
その扉の向こうには、別の誰かがいる。




