4深淵へ引きずられた女
春江が剛志の薬物依存を知ったのは、交際して一年ほど経ったころだった。
彼が長く自分の部屋にいないことには、以前から気づいていた。数日続けて来ないこともあれば、深夜に突然現れ、顔色は悪いのに妙に興奮していることもあった。
春江が尋ねても、剛志はいつも適当に流した。
後に春江が同居を望むと、剛志はしばらく迷った末に、事情を打ち明けた。
春江の最初の反応は、怒りではなかった。
衝撃だった。
剛志の顔からは、彼女が想像していたような痕跡は見えなかった。彼は笑う。酔客から守ってくれる。小さな土産も持ってくる。
半生かけて待っていた相手が、そんな暗いものと結びついていると認めたくなかった。
拘置所で、沙也香は春江を見つめた。
「知ったとき、警察へ行こうとは思わなかったんですか」
春江は首を横に振った。
「離れられなかったんです」
その言葉は、とても軽かった。
けれど春江の後の選択を、ほとんど説明していた。
剛志は、自分はまだ始めたばかりで、ひどい状態ではないと言った。
新しいものだから、体への害も世間で言われるほどではないとも言った。春江は詳しくなかったし、詳しくなりたいとも思わなかった。
ただ、信じたかった。
だが信じても、現実は変わらない。
剛志は薬物から離れられなくなっていった。
春江は反対もした。やめてほしいとも言った。けれど彼女は、この関係の中でいつも弱い側にいた。強く言えば、剛志が離れてしまうのではないかと怖かった。
彼がこの狭い部屋からいなくなるのも、また何もない生活に戻るのも怖かった。
彼女を本当に傷つけたのは、剛志が苛立って口にした一言だった。
「一度やったら、やめられるわけないだろ。春江だって同じだよ」
春江は信じなかった。
正確には、信じることができなかった。
もし信じてしまえば、自分には剛志を救えないと認めることになる。だから彼女は、後に最も悔やむ選択をした。自分も一度触れて、それでもやめられると証明しようとした。
自分の体で、愛が人を深淵から引き戻せると示したかった。
現実は、童話ではなかった。
春江も沈んだ。
やめようとしては戻り、またやめようとしては戻る。その繰り返しの中で、体は急速に衰えていった。清掃の給料と居酒屋の手当だけでは足りなくなった。剛志には安定した仕事がなく、時おり違法な取引で薬物を得ていた。
生活は、少しずつ危険なほうへ傾いていった。
春江は深淵が目の前にあることを知っていた。
それでも、一歩ずつ彼についていった。
沙也香がその子どもの話へ移ると、春江の指がはっきり震えた。
「あの女の子は、どうしてあなたたちの部屋にいたんですか」
春江はうつむいた。
「母親が置いていったんです」
女の子の名前は、小野寺美月。
七歳だった。
母親の小野寺紗希は、長く薬物に依存しており、剛志に借金があった。返す金がなくなった紗希は、ある日、美月を剛志の部屋へ連れてきた。すぐ戻ると言い残して出ていき、そのまま戻らなかった。
剛志は最初から、子どもを厄介者だと思っていた。
育てる気もなければ、育てる力もない。美月をどこかへ渡して金にしようと、地下のつなが
りを探したこともあった。
春江がその話を聞いたとき、初めて本気で剛志とぶつかった。
春江は、美月を残したかった。
自分はもう年齢的に子どもを産めない。薬物依存になった今、子育てなど考えてはいけない立場でもある。けれど、美月が部屋の隅で怯えたようにこちらを見ていると、春江は不相応な幻想を抱いてしまった。
この子を残せないだろうか。
剛志と自分の子どものようにできないだろうか。
その考えは、荒唐無稽で危険だった。
現実的でもなかった。
それでも春江は、考えずにはいられなかった。
美月は痩せていて、声が小さかった。部屋の隅に置かれていた古い布人形をよく触っていた。それは春江が若いころ、裁縫店で手伝いをしていた時期に自分で縫ったものだった。
布は古く、目も片方取れていた。
それでも美月は、いつも抱いていた。
春江は一度、約束した。
「給料が出たら、新しいのを買ってあげるね」
美月は顔を上げた。
「ほんと?」
春江はうなずいた。
「ほんと。くまでも、うさぎでも、好きなものを選んでいいよ」
それは、春江が美月に残した約束だった。
そして後に、最も思い出したくない言葉になった。




