表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女性専用刑務所の面会室:一線を越えた【危険な女たち】の犯罪告白  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/128

3.五十一歳の初恋

藤原春江は、一度も結婚したことがなかった。

若いころ、両親が相次いで寝たきりになった。兄は家を出たまま戻らず、家のことはすべて春江一人にのしかかった。

昼は働き、夜は両親の世話をする。


手に入ったお金は、すぐに医療費、家賃、水道光熱費へ消えていった。

そんな日々が二十年以上続いた。

恋をする時間はなかった。


彼女と家庭を持ちたいという人もいなかった。家には長く寝たきりの両親がいる。春江と一緒になるということは、底の見えない負担を背負うことと同じだった。

春江は、そんなことは気にしていないと言った。


けれど夜中、父の体を拭き、母のシーツを替えているとき、隣の部屋からテレビの笑い声が聞こえてくることがあった。若い恋人、結婚式、子ども、旅行。

そういう言葉は、まるで他人の人生からこぼれてきたもののようだった。


両親が亡くなったとき、春江はもう四十代になっていた。

人生で最も明るいはずの二十数年は、まるで空白ボタンを押されたように飛ばされていた。生きてはいた。けれど、自分の人生が一度も始まらなかったような気がしていた。


年の近い相手と、穏やかに暮らすことを考えなかったわけではない。


だが、そういう相手はたいてい離婚歴があるか、配偶者を亡くしているか、ただ自分の世話をしてくれる女性を探しているだけだった。

春江は、それが嫌だった。


自分に華やかな条件がないことはわかっていた。それでも胸の奥には、まだ老いていない場所があった。

そこだけは、恋を知らない少女のままだった。

いつまでも、現れない誰かを待っていた。


少しでも収入を増やすため、春江はショッピングセンターの清掃とは別に、駅裏の居酒屋でも働いていた。


小さな店だった。夜になると酔客が多く、春江はテーブルを片づけ、空き瓶や吸い殻を集めた。明け方に帰るころには、体に酒と油の臭いが染みついていた。


黒沢剛志が現れたのは、その店だった。


ある夜、一組の客がひどく酔っていた。春江が空き瓶を片づけていると、誤って一本を倒してしまった。ビールが男のズボンの裾にかかり、相手は立ち上がって、春江へ手を伸ばした。


春江は反射的に頭を下げた。

平手は飛んでこなかった。

剛志が横から手を出し、その男を止めていた。


「もういいだろ。瓶一本で、そんなに怒鳴るなよ」


酔った男は悪態をついたが、最後は仲間に席へ戻された。

春江はその場に立ったまま、空き瓶を入れる袋を握りしめて動けなかった。

剛志が振り返った。


「大丈夫?」


ただ、それだけの言葉だった。

それなのに春江は、長く忘れられなかった。


五十一年、彼女はいつも誰かの前に立つ側だった。両親の病床の前に立ち、請求書と生活の前に立ち、あらゆる面倒の前に立ってきた。


その夜、初めて誰かが自分の前に立ってくれた。

他人から見れば、黒沢剛志は気まぐれで清掃員を助けただけかもしれない。

けれど春江には、彼が映画の主人公のように見えた。

自分だけの主人公に見えた。


それから春江は、居酒屋で働くたびに、剛志が来ていないかを気にするようになった。

彼は常連だった。よく仲間を連れて飲みに来る。来る時間は遅く、帰る時間も遅い。真面目な男には見えなかった。言葉は荒く、夜の街に混じって生きている人間特有の危うさもあった。


それでも、春江には妙に丁寧だった。

他の客は、吸い殻や空き瓶を彼女の袋へ乱暴に投げ入れる。

剛志はしなかった。

袋を受け取り、空き瓶を一本ずつ入れてくれた。

そんな小さなことは、他人から見れば何でもない。


だが春江は、一つ一つを心にしまった。恋を覚えたばかりの少女のように、相手の視線も、何気ない言葉も、すべて運命の合図に見えた。

ある平凡な夜、剛志はひどく酔った。


その卓の客は、ほとんど全員が酔いつぶれていた。一人でふらふら帰る者もいれば、恋人に迎えに来てもらう者もいた。剛志だけがテーブルに突っ伏したまま、冷たい風の中で眠っていた。


春江はそばに立ち、しばらく彼を見ていた。

放っておけなかった。


住所を聞いて送っていこうとしたが、剛志は舌が回らず、言葉は途切れ途切れだった。結局、春江は彼を自分の部屋へ連れて帰った。

海坂市南区の古い木造アパートだった。


部屋は狭く、一部屋と小さな台所しかない。冬は窓の隙間から風が入り、浴室も体を回すのがやっとだった。それでも、清掃の給料と居酒屋の手当で何とか維持している、春江のすべてだった。


春江は剛志を自分のベッドに横たえ、靴を脱がせた。

熱いタオルで顔も拭いた。

すべてを終えたあと、彼女は自分がどこで眠ればいいのかわからなくなった。


部屋の明かりは消えていた。

暗闇の中で、剛志が目を開けた。

そして春江を腕の中へ引き寄せた。


春江は拒まなかった。

呼吸さえ忘れていた。


その夜のあと、酔いが覚めた剛志は、起き上がって春江を見た。何が起きたのか、頭の中で整理しているようだった。


春江はベッドの端に座り、自分をどう扱えばいいのかわからなかった。年齢への引け目もあった。五十を過ぎて初めて男に抱かれたという事実も、彼女をひどく落ち着かなくさせた。

剛志は少し黙ったあと、言った。


「大丈夫。俺がちゃんとするから」


その言葉を、春江は一生忘れなかった。


それから剛志は、ときどき春江の部屋に泊まるようになった。コンビニの菓子、安いハンドクリーム、露店で買った髪留め。小さな土産を持ってくることもあった。


どれも高価なものではない。

それでも春江は、大切にしまった。


自分は、ようやく恋をしたのだと思った。

五十一歳。

あまりにも遅い。

けれど、遅かったからこそ、手放せなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ