3.五十一歳の初恋
藤原春江は、一度も結婚したことがなかった。
若いころ、両親が相次いで寝たきりになった。兄は家を出たまま戻らず、家のことはすべて春江一人にのしかかった。
昼は働き、夜は両親の世話をする。
手に入ったお金は、すぐに医療費、家賃、水道光熱費へ消えていった。
そんな日々が二十年以上続いた。
恋をする時間はなかった。
彼女と家庭を持ちたいという人もいなかった。家には長く寝たきりの両親がいる。春江と一緒になるということは、底の見えない負担を背負うことと同じだった。
春江は、そんなことは気にしていないと言った。
けれど夜中、父の体を拭き、母のシーツを替えているとき、隣の部屋からテレビの笑い声が聞こえてくることがあった。若い恋人、結婚式、子ども、旅行。
そういう言葉は、まるで他人の人生からこぼれてきたもののようだった。
両親が亡くなったとき、春江はもう四十代になっていた。
人生で最も明るいはずの二十数年は、まるで空白ボタンを押されたように飛ばされていた。生きてはいた。けれど、自分の人生が一度も始まらなかったような気がしていた。
年の近い相手と、穏やかに暮らすことを考えなかったわけではない。
だが、そういう相手はたいてい離婚歴があるか、配偶者を亡くしているか、ただ自分の世話をしてくれる女性を探しているだけだった。
春江は、それが嫌だった。
自分に華やかな条件がないことはわかっていた。それでも胸の奥には、まだ老いていない場所があった。
そこだけは、恋を知らない少女のままだった。
いつまでも、現れない誰かを待っていた。
少しでも収入を増やすため、春江はショッピングセンターの清掃とは別に、駅裏の居酒屋でも働いていた。
小さな店だった。夜になると酔客が多く、春江はテーブルを片づけ、空き瓶や吸い殻を集めた。明け方に帰るころには、体に酒と油の臭いが染みついていた。
黒沢剛志が現れたのは、その店だった。
ある夜、一組の客がひどく酔っていた。春江が空き瓶を片づけていると、誤って一本を倒してしまった。ビールが男のズボンの裾にかかり、相手は立ち上がって、春江へ手を伸ばした。
春江は反射的に頭を下げた。
平手は飛んでこなかった。
剛志が横から手を出し、その男を止めていた。
「もういいだろ。瓶一本で、そんなに怒鳴るなよ」
酔った男は悪態をついたが、最後は仲間に席へ戻された。
春江はその場に立ったまま、空き瓶を入れる袋を握りしめて動けなかった。
剛志が振り返った。
「大丈夫?」
ただ、それだけの言葉だった。
それなのに春江は、長く忘れられなかった。
五十一年、彼女はいつも誰かの前に立つ側だった。両親の病床の前に立ち、請求書と生活の前に立ち、あらゆる面倒の前に立ってきた。
その夜、初めて誰かが自分の前に立ってくれた。
他人から見れば、黒沢剛志は気まぐれで清掃員を助けただけかもしれない。
けれど春江には、彼が映画の主人公のように見えた。
自分だけの主人公に見えた。
それから春江は、居酒屋で働くたびに、剛志が来ていないかを気にするようになった。
彼は常連だった。よく仲間を連れて飲みに来る。来る時間は遅く、帰る時間も遅い。真面目な男には見えなかった。言葉は荒く、夜の街に混じって生きている人間特有の危うさもあった。
それでも、春江には妙に丁寧だった。
他の客は、吸い殻や空き瓶を彼女の袋へ乱暴に投げ入れる。
剛志はしなかった。
袋を受け取り、空き瓶を一本ずつ入れてくれた。
そんな小さなことは、他人から見れば何でもない。
だが春江は、一つ一つを心にしまった。恋を覚えたばかりの少女のように、相手の視線も、何気ない言葉も、すべて運命の合図に見えた。
ある平凡な夜、剛志はひどく酔った。
その卓の客は、ほとんど全員が酔いつぶれていた。一人でふらふら帰る者もいれば、恋人に迎えに来てもらう者もいた。剛志だけがテーブルに突っ伏したまま、冷たい風の中で眠っていた。
春江はそばに立ち、しばらく彼を見ていた。
放っておけなかった。
住所を聞いて送っていこうとしたが、剛志は舌が回らず、言葉は途切れ途切れだった。結局、春江は彼を自分の部屋へ連れて帰った。
海坂市南区の古い木造アパートだった。
部屋は狭く、一部屋と小さな台所しかない。冬は窓の隙間から風が入り、浴室も体を回すのがやっとだった。それでも、清掃の給料と居酒屋の手当で何とか維持している、春江のすべてだった。
春江は剛志を自分のベッドに横たえ、靴を脱がせた。
熱いタオルで顔も拭いた。
すべてを終えたあと、彼女は自分がどこで眠ればいいのかわからなくなった。
部屋の明かりは消えていた。
暗闇の中で、剛志が目を開けた。
そして春江を腕の中へ引き寄せた。
春江は拒まなかった。
呼吸さえ忘れていた。
その夜のあと、酔いが覚めた剛志は、起き上がって春江を見た。何が起きたのか、頭の中で整理しているようだった。
春江はベッドの端に座り、自分をどう扱えばいいのかわからなかった。年齢への引け目もあった。五十を過ぎて初めて男に抱かれたという事実も、彼女をひどく落ち着かなくさせた。
剛志は少し黙ったあと、言った。
「大丈夫。俺がちゃんとするから」
その言葉を、春江は一生忘れなかった。
それから剛志は、ときどき春江の部屋に泊まるようになった。コンビニの菓子、安いハンドクリーム、露店で買った髪留め。小さな土産を持ってくることもあった。
どれも高価なものではない。
それでも春江は、大切にしまった。
自分は、ようやく恋をしたのだと思った。
五十一歳。
あまりにも遅い。
けれど、遅かったからこそ、手放せなかった。




