【ぬいぐるみの中の骨】五十四歳の清掃員が隠した少女の遺体 1.ぬいぐるみの中の骨
夜になるたび、海坂市の青葉ショッピングセンター一階にある玩具店に、ぼんやりとした人影が現れるようになった。
その人物は、棚の間を静かに抜けていき、並んだぬいぐるみの前で足を止める。閉店後の館内には、非常灯の淡い光と空調の低い音だけが残っていた。ショーウィンドウのガラスは暗闇を映し、まるで中から誰かが外を見ているようだった。
夜明けが近づくころ、その人影は消える。
小森理沙が最初に異変に気づいたのは、二〇〇二年の晩秋だった。
店のシャッターを開けたとき、鍵は壊されていなかった。レジにも触れられた形跡はない。けれど棚に並んでいた数匹のうさぎのぬいぐるみとテディベアの位置が、前日の夜とほんの少し違っていた。
普通の店員なら気づかないほどの変化だった。
だが、理沙は見逃さなかった。
「こぐま堂」というこのぬいぐるみ専門店には、彼女が数年間働いて貯めたお金のほとんどがつぎ込まれていた。小さいころから、自分だけの玩具店を持つのが夢だった。棚の高さも、ショーウィンドウの飾りつけも、一つ一つのぬいぐるみの向きも、すべて理沙が考えて並べたものだった。
だから、たった数センチ動いているだけでもわかる。
最初は、閉店作業のときにスタッフが戻し忘れたのだと思った。
けれど数日後、同じことが起きた。
朝、店を開けるたびに、何体かのぬいぐるみが触られたように見える。商品は減っていない。レジも荒らされていない。倉庫の扉も施錠されていた。
理沙以外、誰もそれを深刻に受け止めなかった。
もう一つ、彼女を不安にさせたものがある。
店内に漂う臭いだった。
最初は薄かった。湿った布を長く閉じ込めたような、あるいは何か酸っぱいものが棚の奥に隠れているような臭いだった。理沙は毎日、床を拭き、棚を掃除し、消毒液も使った。
それでも臭いは消えない。
むしろ日が経つにつれて、ぬいぐるみの棚のほうから、ふっと立ち上るようになった。
理沙は青葉ショッピングセンターの防災センターに相談した。
一度目は、様子を見てくださいと言われた。
二度目は、空調の問題かもしれませんと言われた。
三度目、四度目になると、商業施設側の対応は明らかに曖昧になっていった。店内の物が盗
まれたわけではない。客から苦情が出たわけでもない。誰も、数体のぬいぐるみが動いているというだけで、施設全体を調べようとはしなかった。
五度目、理沙は防災センターの前から動かなかった。
呼び出された島田マネージャーの前に、彼女は数枚の写真を置いた。写真には、同じ棚に並ぶテディベアの位置が日によって変わっている様子が、赤いペンで丸く囲まれていた。
「私の気のせいじゃありません。誰かが店に入っています」
島田は写真を見て、困ったような顔をした。
「小森さん、信じていないわけではありません。ただ、商品がなくなったわけでも、シャッターが壊されたわけでもないとなると、判断が難しくて」
「では、判断できるまで見てください」
理沙は引かなかった。
最終的に、施設側は夜間の警備を強化することにした。防災センターでは、閉店後に二名の警備員が一階の吹き抜け付近を監視し、同時に監視カメラの映像も確認することになった。
当時のカメラは古く、映像は鮮明ではない。
そのため警備員は、交代で向かいのコンビニ駐車場に停めた車の中から、こぐま堂のショーウィンドウを見張ることになった。
その夜は風が冷たかった。
二人の警備員は、午前二時まで見張りを続けた。商業施設の外の通りには、もうほとんど人影がない。コンビニの看板だけが空っぽの駐車場を照らし、車の窓には薄く曇りが広がっていた。
助手席に座っていた田辺は、眠気でまぶたが落ちかけていた。
その瞬間、ショーウィンドウに人影が映った。
影は薄く、棚の前を滑るように動いていた。黒い布が光に引き延ばされているようにも見えた。
田辺は跳ね起き、隣の三浦の肩を叩いた。
「起きろ」
三浦が視線を向けた瞬間、眠気は消えた。
二人はすぐには飛び出さなかった。
見間違いかもしれない。そう思いながら、息を潜めて窓の向こうを見つめた。だが影はたしかに動いていた。ゆっくりと玩具棚の間を進み、やがて一番奥のぬいぐるみの棚の前で止まった。
田辺はこらえきれず車のドアを開け、商業施設のほうへ声を張った。
「誰だ!」
影がびくりと揺れた。
二人は正面入口へ走った。防災センターの職員も内側から駆けつけた。扉の鍵を開けたとき、一階フロアには空っぽの照明だけが残っていた。
こぐま堂のシャッターは閉まったままだった。
ショーウィンドウの向こうの棚も、何事もなかったように静かだった。
その人物は、すでに消えていた。
捕まえることはできなかった。
それでも、その夜は理沙の言葉が嘘ではなかったことを証明した。
深夜、こぐま堂に誰かが入り込んでいた。
理沙はついに一一〇番通報した。
海坂中央署の警察官が店に来て、現場を調べた。シャッターにこじ開けられた跡はなく、レジ、倉庫、商品棚にも被害はない。警察はひとまず、深夜の侵入と営業妨害に近い事案として扱うしかなかった。
理沙は棚の前に立ち、動かされたぬいぐるみを警察官に見せた。
薄茶色のテディベア、うさぎのぬいぐるみが二つ、スカートをはいた布人形。外側に破れはなく、縫い目も整っている。毎日商品に触れている理沙でさえ、何が違うのかはっきりとは言えなかった。
現場確認のあと、警察は倉庫脇の小さな扉に注目した。
その扉は商業施設の非常階段へつながっている。夜間、裏口は完全には施錠されないが、警備員が詰めている。施設の構造をよく知っている者なら、警備員の目を避け、非常通路から
玩具店の裏へ回り込める可能性があった。
問題は、目的だった。
金は盗まない。
玩具も盗まない。
棚を触るだけ。
警備員が人影を見た夜を境に、こぐま堂での異変はいったん止まった。理沙は不安を押し込めたまま、店を開け続けた。
もしかすると、精神的に不安定な誰かが迷い込んだだけなのかもしれない。
一度見られて、もう戻ってこないのかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとした。
半月後、子どもを連れた母親が、壊れたぬいぐるみを持って店に来るまでは。
その日の午後、店には何人かの客がいた。
女性はレシートと、切り開かれたテディベアをレジ台に置いた。顔色が悪い。理沙は最初、商品の不具合だと思った。レシートを確認し、返金か交換の準備をした。
だが女性は、金を受け取らなかった。
ビニール袋の中から、何かを取り出してカウンターに置いた。
小さく変色した硬い欠片だった。
理沙はそれが何なのか、すぐにはわからなかった。ただ、胃の奥が急に沈むような感覚があった。店内にはまだ客がいる。騒ぎにしたくなくて、声を落とした。
「これは、ぬいぐるみの中から出てきたんですか」
女性の手は震えていた。
「子どもが水につけてしまったんです。拾い上げたときに変な臭いがして、綿が悪いのかと思って切ったら、これが出てきました」
理沙はその欠片を見つめたまま、喉が詰まった。
彼女は商品代を返し、何度も頭を下げた。ようやく母親が帰ると、すぐに店を閉めた。紙でその欠片を包み、タクシーで海坂中央署へ向かった。
検査結果が出たとき、理沙は警察署の廊下で、警察官の言葉をうまく理解できなかった。
それは動物の骨ではなかった。
処理された人間の肋骨の一部だった。
警察はすぐにこぐま堂へ向かった。
理沙は真っ青な顔で、過去に動かされていたぬいぐるみを一つずつ棚から下ろした。警察官がその場で調べると、やはり数体のぬいぐるみの綿の中から、似たような骨片が見つかった。
外見にはほとんど跡がない。
糸をほどき、また縫い直してある。縫い目は細かく、もともとそうだったように見えた。臭いに気づくか、ぬいぐるみを切り開くかしなければ、普通の客にはわからなかっただろう。
骨片はすべて警察署へ運ばれた。
鑑定と照合の結果、被害者は七歳前後の子どもである可能性が高いとされた。こぐま堂で見つかった骨片を合わせると、遺骨のおよそ三分の二に相当した。
小森理沙は店の入口に立ち、警察が箱ごとぬいぐるみを運び出していくのを見ていた。
子どものころから夢見ていた自分の店が、覚めない悪夢に変わってしまったようだった。




