4.家族が用意した相手
2019年、蓮斗は一人で白倉町へ帰った。
戻ってきた日、美和子はすぐに違和感を覚えた。
いつもなら、しばらく離れて再会すると、蓮斗は先に抱きしめ、キスをした。その日は違った。彼は荷物を玄関に置き、疲れたと言っただけだった。美和子は最初、深く考えなかった。
しかしすぐに、彼が目を合わせようとしないことに気づいた。
美和子は蓮斗の嘘に敏感だった。
平静を装えば装うほど、何かがあったのだとわかった。
その夜、リビングの明かりは消していた。キッチンの小さな灯りだけがついている。蓮斗はソファの端に座り、スマホケースを指でこすっていた。
美和子は彼の前に立った。
長い沈黙のあと、口を開いた。
「蓮斗、あなたは私に嘘をつくのが下手よ。今回、実家で何があったの」
蓮斗はうつむいた。
「ごめん」
「その言葉はいい。何があったのかを聞いているの」
蓮斗は、しばらく黙った。
声は喉の奥に沈んでいた。
「親戚が、女の人を紹介してきた。その日に、向こうの家に誘われて」
美和子は動かなかった。
蓮斗の指が止まった。
「その人と、関係を持った」
部屋の空気が凍った。
美和子は叫ばなかった。
彼に飛びかかることもしなかった。
ただ立ったまま、自分の体が少しずつ冷えていくのを感じていた。後に彼女は、その冷たさは悲しみではなく、体の奥で何かが砕ける感覚だったと話している。
その女性は、水原亜紀といった。
離婚歴があり、子どもが一人いた。佐野家の親戚から見れば、条件が特別よいわけではない。それでも年齢は現実的で、結婚する意思があり、子どもを持つことにも前向きだった。
佐野家にとって、彼女は美和子よりも現実的な選択肢だった。
蓮斗の家族は、美和子が本当に結婚するつもりなのか疑い始めていた。
彼女の本当の年齢までは知らない。けれど三十五歳には見えず、本人確認書類も出さず、正式な手続きの話になるたびに逃げる。もしかすると、美和子は若い男に愛される感覚だけを楽しんでいて、蓮斗の未来までは考えていないのではないか。
そんな不安が、佐野家の中で膨らんでいた。
だから親戚は、蓮斗に亜紀を紹介した。
亜紀は積極的だった。
若く、独身で、安定した収入のある蓮斗を手放したくなかった。二人は一度しか会っていない。それでも彼女は、できるだけ早く結婚したいと考えた。蓮斗も、はっきり拒まなかった。
後に沙也香が亜紀を取材したとき、彼女の声にはまだ消化しきれない衝撃が残っていた。
「彼は、私と一緒になりたい、早く結婚して子どももほしいと言っていました。でも翌日になって、海坂市に五十歳近い同居相手がいると知ったんです。受け入れられるわけがありません」
亜紀は蓮斗に聞いた。
なぜ、そんなに年上の女性を好きになったのか。
蓮斗の答えは曖昧だった。
美和子は若く見えた。
付き合い始めたころは、本当の年齢を知らなかった。
あとから知ったときには、もう情が移っていた。
その言葉は、亜紀にとっては説明のようで言い訳だった。
美和子にとっては、残酷だった。
必死に隠してきた年齢が、結局は誰かに測られるものになっていた。
亜紀の存在を知ったあと、美和子は一度荷物をまとめた。
海坂市を離れ、実家へ戻ろうと思った。せめてこの関係から自分を引き離したかった。だが蓮斗は行かせなかった。
玄関を塞ぎ、スーツケースを引き戻した。
数日眠っていないような目をしていた。
「行かせない」
「あなたには、もう別の人がいるでしょう」
「それとは違う」
「何が違うの」
蓮斗は答えられなかった。
ただ、何度も美和子の手首をつかんだ。彼女が本当に生活から消えるのを怖がっているようだった。
「俺が好きなものは、俺が手放すと決めるまで、誰にも奪えない」
その言葉は、美和子を安心させなかった。
むしろ怖くなった。
実家へ帰っても、蓮斗が追ってきて騒ぐかもしれない。娘の莉央はすでに結婚し、子どももいる。そこへこんな問題を持ち込みたくなかった。
それに、自分が若く、結婚に向いた女に負けたのだと、周りに知られたくなかった。
美和子は残った。
表向きには、亜紀へ電話をかけ、自分は身を引くと言ったこともある。
だが実際には、出ていかなかった。
亜紀は何度か蓮斗へ電話をし、美和子がまだそばにいることを感じ取った。やがて直接、美和子に電話をかけた。
声は冷たかった。
「本当に私たちを祝福する気があるなら、きれいに離れてください。あなたの存在を私に知らせなければ、私は蓮斗さんとちゃんと暮らしていけたんです」
美和子はベランダのそばに座り、スマホを握っていた。
「あなたは、いつか知ることになる。あとで知っても、きっと怒るでしょう」
電話の向こうで、亜紀が笑った。
「そのころには、私と蓮斗さんは結婚して、子どももいるかもしれません。結婚前のことを、いつまでも気にすると思いますか」
美和子は何も言わなかった。
亜紀から見れば、美和子の電話は身を引くためのものではない。自分こそが三年間、蓮斗のそばにいたのだと見せつけるためのものだった。
美和子から見れば、亜紀こそが突然割り込んできた女だった。
二人とも、自分こそが残るべきだと思っていた。
そして蓮斗は、最後まで本当の選択をしなかった。




