3.出せなかった婚姻届
美和子が本当に怖れていたのは、年齢を聞かれることではなかった。
怖かったのは、婚姻届だった。
日本で正式に結婚するには、市区町村役場へ婚姻届を出す必要がある。本人確認や戸籍の確認が行われれば、年齢、離婚歴、家族関係は隠せない。食卓で八歳差だと言うことはできても、戸籍まで嘘をついてはくれない。
婚姻届を出せば、佐野家は知る。
美和子が五十歳を過ぎていること。
過去に結婚していたこと。
すでに結婚して子どもを持つ娘がいること。
どれも罪ではない。
けれど美和子にはわかっていた。
蓮斗の家族にとって、それは白倉町で撮った婚礼写真を壊すには十分だった。
彼女は少しずつ、先延ばしにし始めた。
今日は店のシフトが詰まっている。
明日は娘のことで用事がある。
その次の日は、まだ心の準備ができていない。
最初は蓮斗も慰めていたが、やがて苛立ちを見せるようになった。
佐野家のほうも焦っていた。
祖母の容体はよくなったり悪くなったりを繰り返している。親戚からは、式はどうするのか、届出はいつなのかと何度も聞かれた。由美子は美和子という人そのものを嫌っていたわけではない。
ただ、納得できなかった。
本当に嫁ぐつもりがあるのなら、なぜ必要な書類を出さないのか。
なぜ肝心なところで、いつも逃げるのか。
美和子側にも、もう一つ現実的な障害があった。
娘の桐谷莉央だった。
莉央は平成の初めに生まれた。
蓮斗より一歳年上で、すでに結婚し、一歳を少し過ぎた子どもがいた。沙也香が会ったとき、莉央はその子を抱いていた。毛糸の帽子をかぶった子どもは、母親の服をつかみ、丸い目でこちらを見ていた。
いくつか世間話をしたあと、沙也香は美和子との関係を尋ねた。
莉央は少し笑った。
「普通の親子とは違うと思います。家でも、あまりお母さんとは呼びません。美和って呼ぶことのほうが多かったです。気持ちが若い人で、私ともあまり世代差がなくて。体型を保つために一緒に夕食を抜いたり、パックをしたりもしていました」
そこまで言って、笑みが薄れた。
「だから蓮斗さんのことも、最初に聞いていました」
莉央は最初、母の遅れてきたロマンスだと思っていた。
相手は若く、優しい言葉をくれて、同じゲームが好きだった。少し新鮮な気分を味わえば、そのうち落ち着くだろう。年齢差を考えれば、蓮斗はいずれ同年代の女性と結婚し、子どもを持つはずだと思っていた。
だが二人は三年も同居した。
さらに、美和子は本気で結婚しようとしていた。
沙也香は莉央を見た。
「結婚には反対だったんですね」
莉央は子どもの帽子を直した。手つきは優しいが、声は硬かった。
「当然です。美和は蓮斗さんより二十四歳も上で、私は蓮斗さんより一つ上なんですよ。どう受け止めればいいんですか。私だけが反対しているなら、私が固いだけかもしれません。でも周りの全員がよくないと言うなら、その関係自体に問題があるんだと思います」
莉央は、美和子が結婚に必要な準備をしようとしていることを知っていた。
だから協力しなかった。
美和子が家族関係に関わる資料を必要としたとき、莉央は応じなかった。母親を支配したかったわけではない。ただ、火の中へ進んでいく母を止めたかった。
「祖母も、叔父も、私も止めました。でも、美和は誰の言葉も聞かなかった。十代の子がするような失敗を、どうして今さら繰り返すのかと思いました」
沙也香はすぐには答えなかった。
莉央の声には怒りがあった。けれどそれ以上に、娘としての無力さがにじんでいた。母が少女のように恋に落ちていくのを見ていたからこそ、それが少女の年齢ではない人にとってどれほど危ういか、誰よりもわかっていた。
後に沙也香は、「母親を求めるような恋だったのか」と、美和子に遠回しに尋ねた。
美和子はきっぱり否定した。
「違います。蓮斗はそういう人ではありません」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「一緒にいて、そう感じたからです。私たちは対等でした。あの子が私に依存していたわけでも、私が一方的に世話をしていたわけでもありません」
「普段、甘えることはありましたか」
「ありません。何かあれば、二人で話し合っていました」
沙也香は、その関係を単純な言葉で片づけることはできないと思った。
二人には共通の趣味があり、三年間、本当に恋人として暮らしていた。美和子の心は実年齢より若く、蓮斗は同年代より少し大人びていた。ある瞬間だけ切り取れば、二人は同じ場所に立っていたのかもしれない。
だが、年齢差は消えない。
恋が結婚へ向かうとき、見ないふりをしていたものは必ず戻ってくる。




