5.前妻のハンカチ
白石莉奈が取材に応じたのは、凪の話を聞いたあとだった。
当初、彼女は前田沙也香と会うことを拒んでいた。娘の小春を世間の噂に巻き込みたくなかったし、高瀬のことをもう一度語ることにも耐えられなかった。だが凪の話が耳に入ると、長く沈黙したあと、面会を受け入れた。
沙也香が会ったとき、莉奈は白いシャツを着て、髪を後ろで一つに束ねていた。どこにでもいる教師のような服装だった。けれど顔色は悪く、唇は乾いていた。長く眠れていない人の顔だった。
沙也香は席に着くと、最も聞かなければならないことから尋ねた。
「高瀬さんが学校で何をしていたか、以前から知っていたんですか」
莉奈は机を見つめた。
「一部は、知っていました」
莉奈と高瀬は高校時代からの知り合いだった。
幼なじみに近い関係で、若いころは周りから羨ましがられたこともある。大学を出て、莉奈は理科教師に、高瀬は体育高校の教師になった。結婚し、娘が生まれ、家を買った。外から見れば、ごく普通の教師夫婦だった。
変化はゆっくり訪れた。
高瀬は少しずつ莉奈に冷たくなった。最初は、結婚生活の倦怠期だと思っていた。長く一緒にいれば、夫婦の温度が下がることもある。そう自分に言い聞かせていた。
だがある日、高瀬のパソコンに少女の写真が残っているのを見た。
週末、当番でもないのに学校へ行くことも増えていた。
一度、二人で青峰市中心部のショッピングモールへ行ったことがある。高瀬は途中で疲れたと言い、広場の端に座って彼女を待った。買い物を終えて戻ると、彼はまだ莉奈に気づいていなかった。視線は、広場にいた十代の少女たちから離れなかった。
その瞬間、莉奈は全身が冷たくなった。
もし高瀬が彼女に気づかなければ、そのうち一人のあとをつけていたかもしれない。そう思えてしまった。
沙也香は彼女を見た。
「そのとき、どうして明るみに出さなかったんですか」
莉奈は乾いた唇をなめた。
「騒ぎになるのが怖かったんです」
二人とも教師だった。
表沙汰になれば、高瀬だけでは済まない。莉奈自身も、小春も、噂の中に引きずり込まれる。帰宅後、彼女は高瀬に離婚を切り出した。高瀬は膝をついて謝り、もう二度と見ないと約束した。
若い子に目が行くのは男なら普通だ。青春や美しさに惹かれるだけだ。
そんなことまで言った。
莉奈はその言葉に吐き気がした。
それでも、心のどこかで弱くなった。
妻として高瀬と暮らすことはやめた。けれど、すべてを暴くこともできなかった。二人は離婚届を出し、莉奈は小春を連れて出ていった。住まいは高瀬の家から遠すぎない場所にした。小春が定期的に父親と会えるようにするためだった。
当時の莉奈は、それが折衷案だと思っていた。
娘を守り、世間体も守る。
そして何より、高瀬には汚れた願望があるだけで、実際に行動する勇気はないと思い込んでいた。
「私は、あの人はそこまでしないと思っていました」
莉奈はそこで、かすかに笑った。
その笑みに、温度はなかった。
「私が離れれば、それで足りると思っていたんです」
離婚しても、莉奈の不安は消えなかった。
むしろ彼女は、自分の年齢や外見を異常に気にするようになった。鏡を見るたび、目尻の皺、肌のゆるみ、若くはない自分が目に入る。そのたびに、高瀬が少女へ向けた目を思い出した。
食事を減らした。
美容に金を使った。
似合わない服を買った。
二十歳になる前の自分に戻れば、もう一度高瀬の目に映るのではないか。そう考えた。だがそうすればするほど、自分が惨めになるだけだった。
その後、莉奈は高瀬が変わっていないことに気づいた。
ただ、以前より慎重になっただけだった。
はっきりした記録は残さない。莉奈の前では視線を隠す。それでも莉奈にはわかった。二十年近く一緒にいた時間が、彼の嘘の細部を見抜かせた。
莉奈を決定的に壊したのは、幼稚園の迎えに行った日のことだった。
小春は黄色い帽子をかぶり、園庭でほかの子たちと走り回っていた。何も知らず、明るく笑っていた。莉奈は柵の外から娘が駆け寄ってくるのを見て、突然、一つの考えに襲われた。
小春も、いつか大きくなる。
思春期を迎える。
小さな女の子ではなく、少女になる。
そのとき、高瀬があの目で娘を見ることがあったら。
その考えは、一度浮かんだきり消えなかった。
莉奈は、小春を父親に会わせることが怖くなった。
それだけではなかった。自分の沈黙が、すでにほかの少女たちを傷つけているのではないかと考えるようになった。
二人目の森野凪がいるかもしれない。
三人目も、四人目もいるかもしれない。
莉奈は学校へ訴えなかった。
警察へも行かなかった。
最も取り返しのつかない方法を選んだ。
死を、あのハンカチに託した。
沙也香は長く黙った。
「後悔していますか」
莉奈は顔を上げた。
「していません」
声は小さかったが、揺れてはいなかった。
「高瀬は、あの子たちに償うべきでした。でも、私のやり方は間違っていました。本当に守りたかったのなら、もっと早く言うべきだった」
莉奈は少し言葉を切った。
「森野さんに会いたいんです。許してもらいたいわけではありません」
彼女の指先が、ゆっくりと握られた。
「あの人の代わりに、謝りたいだけです」




