4.窓の外の目
少年鑑別所の面会室で、森野凪は机を挟んで座っていた。
沙也香が想像していたよりも、彼女は細かった。短い髪はきれいに切りそろえられているが、肩や背中には長い練習でついた強さがある。凪はうつむいたまま、机の下に置いた両手をほとんど動かさなかった。
沙也香は、最初から事件当日のことを聞かなかった。
録音機を机の端へ置き、声を少し落とした。
「どうして、あそこまで行ってしまったの」
凪は机を見つめていた。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「もう、耐えられませんでした」
それは高校一年になって間もない、ある土曜日の午後だった。
学校に正式な授業はなく、専門練習もなかった。凪は同室の小倉美羽と一緒に寮の浴室へ行き、一階の部屋へ戻ったあと、窓際に干していた衣類を取り込み、練習着から着替えた。
そこは狭く、閉じられた空間だった。
思春期に入ったばかりの二人が、互いの変化や自分の身体に戸惑うことは自然だった。それは恋でも性でもない。成長していく時期にだけ生まれる、身体と性別への素朴な戸惑いだった。
美羽が、何気なく笑った。
「凪ってさ、ほんとは全然男の子っぽくないよね」
悪気のない言葉だった。
それでも凪は、すぐには返せなかった。
うつむき、照れくささと不慣れな感覚に戸惑った。自分を女の子として見てもらったのは、ずいぶん久しぶりだった。その一瞬だけ、少しだけうれしかった。
着替え終えた直後、凪は窓の外に人影を見た。
高瀬が女子寮の外に立っていた。
窓越しに、こちらを見ていた。
凪は叫ばなかった。
その場で固まっただけだった。
高瀬は凪と目が合うと、そのまま窓の外を離れていった。その目に、焦りも謝罪もなかった。自分が取り返しのつかないことをしたとは、少しも思っていないようだった。
その日から、凪の世界は歪み始めた。
練習場で高瀬に会うたび、彼の視線を感じるようになった。その目は制服や練習着を通り抜け、凪をまたあの窓の前へ引き戻した。
高瀬は凪に触れていない。
誰かに見せられる傷も残していない。
それでも凪には、毎日あの視線で剥がされているように感じられた。
一学期のあいだ、彼女は誰にも言わなかった。
あの日、同じ部屋にいた美羽でさえ、高瀬が窓の外にどれほど立っていたのか知らない。凪には、何をどう話せばいいのかわからなかった。話したあと、何が起こるのかも怖かった。
みんなに知られるのが怖かった。
同級生に噂されるのが怖かった。
誰かが高瀬と同じ目で自分を見るのが怖かった。
沙也香はそこまで聞いて、一度言葉を止めた。
「親や学校に話そうとは思わなかった?」
凪の指が、机の下で絡まった。
「無理でした」
彼女は顔を上げた。目には涙ではなく、乾いた空白だけがあった。
「そんなことをしたら、私が見られたことを、みんなに知られてしまうから」
沙也香は、それ以上問い詰めなかった。
大人にとって「話すこと」は、ただの一言かもしれない。だがあのときの凪にとっては、全員の視線の前にもう一度立たされることだった。
彼女が最も恐れていたのは、見られることだった。
凪は白倉町の山あいの集落で生まれた。
小さな集落だった。冬は風が強く、夜になると屋根のトタンが鳴る音まで聞こえた。家は古い木造平屋で、父は外で日雇い仕事をしていることが多く、家のことはほとんど母が決めていた。
母は、ずっと男の子を望んでいた。
凪を産んだとき、母は大出血を起こし、その後、子どもを産めなくなった。生まれてこなかった男の子の影は、そのまま凪の上に落ちた。
物心ついたころから、母は凪を娘として育ててはいなかった。
長い髪にしたことはない。
スカートも履かせてもらえなかった。
ランドセルも文房具も上着も、すべて暗い色で、大きめのものだった。幼いころ、店のショーウィンドウに並んだピンクの髪留めを見つめたことがある。母はすぐに眉をひそめ、凪の手を引いた。
「ああいうのは、凪には似合わないよ」
その言葉を、凪は何度も聞いた。
いつの間にか、自分でもそう思うようになった。
中学に入ると、周りの女子は少しずつやわらかく、きれいになっていった。休日に母親の口紅をこっそり試す子もいれば、髪型を変えて楽しむ子もいた。凪は彼女たちがうらやましかったが、近づけなかった。
大きな男物の服を着て、歩くときは少し背中を丸めた。
そうしていれば、自分の身体が変わっていくことを誰にも気づかれないような気がした。
髪を伸ばそうとしたこともある。
ようやく耳を越えるくらいになったころ、母に美容室へ連れていかれ、また短く切られた。鏡の中で耳と首筋があらわになった自分を見ながら、凪は自分というものが少しずつ消されていくように感じた。
やがて、凪は自分から受け入れるようになった。
大きな服。
目深にかぶる帽子。
短い髪。
男の子のように見える外見。
「男みたい」
という呼び方は、何年も彼女について回った。
青峰体育高校に入れたことは、森野家にとって予想外だった。
学校が白倉町近くで行った選抜テストで、凪は瞬発力と身体の使い方を評価された。彼女は初めて集落を離れ、初めて学生寮に入り、初めて完全に知らない環境へ飛び込んだ。
青峰に来て、凪は自分と似た女子がたくさんいることに気づいた。
短い髪。
日に焼けた肌。
鍛えられた腕とふくらはぎ。
彼女たちは、中学の同級生のように細さや可愛らしさを競ってはいなかった。力、速さ、筋肉、記録。それがこの学校では価値だった。たとえ彼女たちが練習のために髪を短くしているだけだとしても、凪にとっては救いだった。
自分は異物ではない。
初めてそう思えた。
男の子のふりをする必要も、女の子らしさを証明する必要もない。
彼女は、ただ森野凪でいられた。
美羽の何気ない一言は、彼女にほんの短い安心をくれた。
自分も自然に女の子でいていいのだと、そう思わせてくれた。
だが窓の外に立った高瀬の目が、そのすべてを壊した。
凪はまた、大きな服を着るようになった。
練習が終わると、すぐに上着のファスナーを首元まで上げた。高瀬がグラウンドの向こうから歩いてくるだけで、反射的に顔を下げ、視線を避けた。記録は不安定になり、夜も眠れなくなった。
誰も、凪がなぜ変わったのかを知らなかった。
高瀬は相変わらず、穏やかで真面目な教師だった。
同僚は彼を誠実だと言い、生徒たちも怒らない先生だと言った。
だからこそ、凪は逃げ場を失った。
証拠はない。
勇気もない。
安心して話せる相手もいない。
羞恥と恐怖は胸の底で育ち続け、最後には殺意になった。
あの目を消したかった。




