3.毒は私じゃない
凪は、高瀬を呼び出したことを認めた。
その日の昼間、練習の合間に高瀬へ声をかけ、自習時間にやり投げの動作を見てほしいと頼んだ。高瀬は深く聞き返さず、少し遅い時間に体育館棟へ来るよう言った。
凪は事前に、高瀬がよく使う二本の槍を用意していた。
男子更衣室の古い引き戸に癖があることも、レールに物を挟めば扉が動かなくなることも知っていた。高瀬が来たら槍で脅すつもりだった。殺すことさえ考えていた。その思いは、その日に突然生まれたものではない。ずっと彼女の中にあった。
だが実際に更衣室へ入ってから、事態は思ったようには進まなかった。
高瀬は教職員用ジャージ姿で、着替えを持っていなかった。更衣室の中に凪がいるのを見ても驚かず、むしろゆっくりと扉を閉めた。空気はこもっていて、白いタイルに反射する光が妙にまぶしかった。
凪はすぐには動けなかった。
ただ、槍を握って立っていた。
高瀬が近づいてきた。
「森野、フォームを見てほしいんじゃなかったのか。どうした」
凪は一歩下がった。
「先生、来ないでください」
高瀬は足を止めた。
その顔に、薄い笑みのようなものが浮かんだ。
「何を怖がってるんだ」
凪は答えなかった。
その後、高瀬はポケットからハンカチを出し、顔を拭いた。まもなく動きが鈍くなり、全身から力が抜けたように床へ膝をついた。凪には何が起きたのかわからなかった。
芝居だと思った。
また立ち上がってくるとも思った。
恐怖と憎しみが混ざり合い、凪は用意していた計画のとおり、槍を高瀬の腹部へ突き刺した。
高瀬は、そのまま動かなくなった。
凪はようやく恐ろしくなった。
もう一本の槍で引き戸を塞ぎ、密室に見えるようにした。そして廊下に誰もいないことを確かめ、うつむいたまま教室へ戻った。
最初から最後まで、彼女はあのハンカチに触れていない。
「毒は、私じゃありません」
凪はようやく佐伯を見た。
「殺したいとは思いました。でも、毒は私じゃない」
佐伯は、その言葉を信じた。
凪が無実だと思ったからではない。毒物の線が、彼女の条件に合わなかったからだ。凪は学生寮で生活し、普段の外出も管理されている。あの種の猛毒性物質に触れられる環境ではない。しかも彼女は、すでに槍と密室の仕掛けを用意していた。さらに毒入りのハンカチを使う必要がない。
つまり、この事件には少なくとも二人の犯人がいる。
凪は槍で高瀬を殺そうとした。
もう一人は、それより先にハンカチを用意していた。
二人は互いの計画を知らなかった。
高瀬は、二つの殺意の間で死んだ。
捜査の焦点は、すぐに毒物の出どころへ移った。
青峰体育高校の理科実験室に目立った異常はなく、薬品管理簿にも不審な欠落はない。佐伯は高瀬の私生活、とくに彼と親しい関係にあり、化学薬品に触れられる人物を洗い直した。
その名前は、すぐに浮かび上がった。
白石莉奈。
高瀬の前妻だった。
莉奈は県立高校の理科教師で、高瀬とは高校時代からの知り合いだった。結婚生活は長く、幼稚園に通う娘もいる。数年前に離婚し、莉奈は子どもを連れて青峰市の反対側へ移っていた。
警察が白石家を訪ねたとき、莉奈はその日が来ることを予想していたようだった。
娘はすでに近所の人に預けてあった。
莉奈は一人でリビングのソファに座っていた。テーブルには、すっかり冷めた麦茶が置かれている。インターホンが鳴っても、驚いた様子はなかった。
佐伯が警察手帳を示した。
莉奈はそれを見て、玄関の外に立つ二人の警察官へ視線を移した。
「思ったより遅かったですね」
逃げも、否定もしなかった。
ハンカチに付着していた毒物について、莉奈は全面的に認めた。
仕事上、化学薬品に触れる機会があったこと。高瀬が普段からハンカチで汗を拭く癖を持っていたこと。練習のあと、必ずそれをポケットから出すこと。彼女はそのすべてを知っていた。
本来なら、高瀬は誰にも気づかれない場所で倒れるはずだった。
森野凪が同じ日に男子更衣室へ呼び出すとは思っていなかった。
まして、あの少女も彼を殺そうとしていたとは想像していなかった。
事件は、半日ほどで大筋が明らかになった。
けれど真相が見えたあと、青峰体育高校を包む空気は、むしろ重くなった。
一人の教師が男子更衣室で死んだ。
一人の女子生徒は少年事件として家庭裁判所へ送られた。
一人の前妻は殺人の疑いで逮捕された。
これは、ただの校内事件ではない。
学校という場所が隠していたものを、刃物で切り開くような事件だった。
高瀬は何をしていたのか。
森野凪は、なぜあそこまで追い詰められたのか。
白石莉奈は、なぜ自分の人生を壊すと知りながら、あのハンカチを死に近づけたのか。
事件を知った前田沙也香は、警察へ取材を申し込んだ。
莉奈は最初、取材を拒んだ。
娘を世間の噂に巻き込みたくなかった。
沙也香は先に、森野凪と会うことになった。




