2.開かない引き戸
遺体が発見されたのは、午後六時半ごろだった。
青峰体育高校の最後の授業は午後五時に終わる。五時から六時までは、夕食、入浴、寮に戻る準備の時間になる。六時以降は、大半の生徒が寮の自習室に入る。教師の正式な勤務終了時刻も五時だが、食堂で夕食を済ませてから帰る者や、職員室で資料を片づけてから帰る者もいた。
事件当日の宿直表と当番表には、高瀬の名前も内田の名前もなかった。
そのため、第一発見者の内田は一時、疑いの目を向けられた。
事情を聞かれた内田の顔色は悪かった。更衣室で見た光景が、まだ頭から離れていないのだろう。彼は何度も指先を擦り合わせていた。
「いつも少し遅く帰るんです。五時を過ぎると、校門のあたりも駅も混みますから。電車が混む時間を避けたくて、職員室で三十分くらい残ることが多いんです」
佐伯はすぐには信じなかった。
内田の説明は、彼が校内に残っていた理由にはなる。だがハンカチのことも、密室の仕掛けも説明できない。何より、高瀬が男子更衣室へ呼び出されたのは偶然ではないはずだった。
捜査範囲は、すぐに全校へ広がった。
寮の職員、警備員、施設管理担当、清掃員、食堂の従業員、その夜まだ学校に残っていた教師たち。全員の行動が確認された。佐伯は同時に、寮の自習室に時間通り入らなかった生徒、とくに高瀬が指導していたやり投げ専門クラスの生徒たちを調べるよう指示した。
体育の強豪校は、普通高校とは違う。
この学校の生徒は、身体能力が高い者が多い。やり投げ、短距離、走り高跳び、投擲種目の生徒の中には、成人と見間違うほど体格のいい者もいる。大人か子どもか、男か女かという単純な基準だけで見ていると、重要な人物を見落とす。
最初に浮かんだのは、自習に出ていなかった一年生の男子三人だった。
三人とも高瀬のやり投げクラスの生徒だった。
彼らは最初、行き先をなかなか言わなかった。行動を説明できなければ嫌疑が残ると告げられると、ようやくうつむいて白状した。
「学校の裏から抜け出して、駅前のネットカフェに行っていました」
ネットカフェの防犯カメラには、すぐに三人の姿が確認された。
彼らは直接の犯行から外れた。
だが佐伯は気を緩めなかった。
高瀬が死亡してから内田が遺体を発見するまで、わずか三十分ほどしかない。その間、警備員は不審な外部侵入者を見ていなかった。学校の封鎖も早かった。犯人はまだ校内にいたか、少なくとも学校の時間割や体育館棟の構造をよく知る人物だ。
佐伯は当初、犯人は男性だと考えていた。
高瀬は体育教師で、体格もよかった。そんな彼を男子更衣室へ誘い込み、あの場所で現場を作るには、男性のほうが自然に思えた。しかも事件時刻は自習時間とはいえ、廊下を誰も通らないとは限らない。女性が男子更衣室から出てくれば、かなり目立つ。
その考えは、その夜九時を過ぎてから変わった。
自習が終わると、生徒たちは教師に誘導され、それぞれの寮へ戻された。
体育館棟の外階段には、一時、好奇心に駆られた生徒たちが集まった。規制線の向こうを覗き込む者もいれば、高瀬先生に何かあったらしいと小声で話す者もいる。担当教師が何度も声をかけ、生徒たちをその場から離した。
佐伯は階段のそばに立ち、通り過ぎる生徒たちを見ていた。
青峰体育高校の女子生徒は、普通高校の女子とは少し雰囲気が違う。
短髪の生徒が多く、よく日に焼けている。肩や背中はしっかりしていて、制服の上着の下にも練習で鍛えられた線が見える。背の高い女子生徒の中には、遠目には男子に見える者もいた。とくに体育館の薄暗い廊下で、うつむいて足早に通り過ぎれば、すぐに見分けるのは難しい。
佐伯は、自分が「男子更衣室」という言葉に縛られていたことに気づいた。
犯人が中性的な外見の女子生徒なら、男子更衣室から出てきても、すぐには疑われなかったかもしれない。
新たな確認で、一人の名前が浮かんだ。
森野凪。
凪は高校一年の体育科生徒で、高瀬が指導するやり投げクラスの一員だった。駅前のネットカフェへ行っていた男子三人と同じクラスで、その夜の自習中、二十分ほど教室を離れていた。
理由は腹痛。
トイレに行くと、班長に告げていた。
二十分後、凪は教室に戻り、そのまま自習を続けていた。
その時間があれば、体育館棟へ行くことはできる。
凪が臨時の聴取室に連れてこられたとき、全身が強ばっていた。
両手を膝の上に置き、体はわずかに前へ傾いている。ときどき後ろへ引くように小さく動いた。短い髪は耳元に張りつき、制服のボタンは上まで留められていた。佐伯の顔は見ず、視線はずっと自分の靴先に落ちている。
佐伯は記録用紙を机に置いた。
「教室を出たあと、どこへ行った?」
凪の指が制服の裾を握った。
「トイレです。お腹が痛くて、我慢できなくて」
「保健室は教室から近い。どうして行かなかった?」
「あとで、少しよくなったので……そこまでひどくは、なかったから」
部屋は静かになった。
佐伯は急がなかった。
沈黙が長くなるほど、凪の呼吸は乱れていく。手のひらに汗がにじみ、握った制服に深い皺ができた。しばらくして、凪はようやく顔を上げた。声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「高瀬先生……本当に死んだんですか」
佐伯は彼女を見て、うなずいた。
凪の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「毒は、私じゃありません」
その一言は、どんな否定よりも唐突だった。
佐伯は遮らなかった。
凪はうつむいたまま、何かに押しつぶされるように、あの夜のことを少しずつ話し始めた。




