5.家の中の怪物
悠斗が幼いころから、剛志は息子を好かなかった。
剛志はずっと娘を欲しがっていた。悠斗が生まれた日も、ほとんど笑わなかった。ただ冷めた目で赤ん坊を見ただけだった。
それから悠斗は、父にとって、いつまでも基準に届かない失敗作のような存在になった。
どれだけ成績がよくても、剛志は満足しなかった。
小学校高学年になると、剛志は悠斗に条件をつけた。試験では必ず学年五番以内に入ること。そこから外れた瞬間、家の空気は一変した。
あるとき、悠斗は六番を取った。
その夜、家に帰ってから、悠斗はずっと部屋の隅にいた。父の顔を見られなかった。剛志は和室に座り、焼酎を飲んでいた。小皿にはつまみが置かれている。真紀は台所の入り口に立ち、エプロンを握りしめていた。
剛志は一杯飲み干すと、ゆっくりと息子を見た。
「冷蔵庫か、洗濯機か。どっちにする」
悠斗はその場に膝をついた。
「父さん、今回だけは許して。次は絶対に五番以内に入るから」
真紀が一歩前に出た。
「一つ違っただけでしょう。次はちゃんとできるから、悠斗を叩かないで」
言い終える前に、グラスが飛んできた。
割れたガラスが真紀の額を切り、血が頬を伝った。悠斗は母が傷つくのを見て、顔色を変えた。今夜はもう逃げられない。母が口を出せば、さらにひどく殴られる。それもわかっていた。
「母さんを殴らないで。僕が冷蔵庫に頭をぶつけるから」
悠斗は立ち上がり、冷蔵庫の扉に額をぶつけた。
一度。
もう一度。
真紀はその場に立ったまま、涙を流した。けれど止めに入ることはできなかった。剛志はつまみを口へ運び、冷たい目で息子を見ていた。
「血が出るまで続けろ」
その日から、悠斗は家の中で大きな声を出さなくなった。
恨みを日記に書くようになった。
十二歳のとき、悠斗は真紀に言った。次に父が自分たちを殴ったら、必ず殺す。そう言ったのだ。
真紀は全身が冷たくなった。
この家は自分を閉じ込めているだけではない。
息子まで、別の怪物に変えようとしている。
それを初めてはっきりと感じた。
真紀は、ありえない考えで自分を慰めようとしたこともあった。
「ねえ、悠斗。お母さんがもう一人、女の子を産んだらどうかな。お父さんは女の子が欲しかったから、妹ができたら家も少しは変わるかもしれない」
悠斗は赤い目で母を見た。
「どうしてそんなことを考えられるの。母さん、僕が見えてないの? 女の子が生まれたって、あの人は変わらないよ」
その言葉に、真紀は何も言えなくなった。
息子が正しいことはわかっていた。
けれど、わかったからといって逃げられるわけではなかった。
剛志が真紀を殴る理由は、最初は恨みだった。
宮下家が昔、自分を見下したこと。真紀の父が死ぬまで結婚を認めなかったこと。家が貧しいころ、剛志はその屈辱を何度も蒸し返した。
暮らしがよくなってからは、理由が変わった。
外に女ができたのだ。
真紀が最初に気づいたのは、町の携帯ショップだった。
剛志の電話料金を支払いに行き、番号を告げたところ、店員に、数分前に同じ番号へ入金があったと言われた。真紀には、誰の仕業かすぐにわかった。
店を出て、その女を追いかけた。
通りで呼び止め、頬を何度も叩いた。
その噂は、三瀬集落じゅうに広まった。
剛志は面目を失ったと感じた。
家に戻ると、真紀を激しく殴った。
それ以来、剛志は何も隠さなくなった。
同じ集落に住む離婚歴のある女。国道沿いのスナックで働く女。ガソリンスタンドでアルバイトをしている女。市内の小さな居酒屋で知り合った女。
真紀は剛志の携帯電話の連絡先に、次々と知らない名前を見つけた。
最も残酷だったのは、剛志が酒に酔うと、それらの女たちの話を真紀に聞かせることだった。
ある夜、剛志は酒臭い息をまとって帰ってきた。真紀はもう眠りかけていた。剛志は和室の入り口に立ち、上着を床へ投げた。
「起きろ。つまみを二、三品作れ。今夜はお前にゆっくり話してやる」
真紀は起き上がり、低い声で言った。
「もうずいぶん飲んでいるでしょう。明日にしたら」
剛志は彼女を睨んだ。
「もう一回ぐずぐず言ってみろ。今ここで殴り殺すぞ」
三十分後、小さな卓に酒と料理が並んだ。
剛志は酒を飲みながら、携帯電話の連絡先を一つずつ開いた。どこで知り合ったのか。何歳なのか。体つきはどうだったのか。どこのホテルへ行ったのか。
その言葉は、真紀の顔を一枚ずつ刃で削っていくようだった。
真紀は顔をそむけた。
剛志が卓を叩いた。
「こっちを見ろ。聞いているのか」
真紀はついに耐えきれなくなった。
「浮気をする人間なんて世の中にいくらでもいる。でも、あなたみたいな人は見たことがない」
次の瞬間、剛志は真紀の髪をつかみ、畳の上に押し倒した。
真紀はもう抵抗しなかった。
ただ、ふと思った。
この家は、もう家ではない。
自分と悠斗を、毎日少しずつ呑み込んでいく場所なのだと。




