2.生き残った妻
事件から二十時間あまりが過ぎたころ、警察は再び真紀から話を聞いた。
今度の真紀は、完全に意識を取り戻していた。
しかし顔に浮かんでいたのは、深い悲しみではなく恐怖だった。佐伯が剛志の名を出しても、夫を失った人間のように取り乱すことはなかった。ただ布団の端を強く握りしめ、いつ誰かが病室の戸を開けて入ってくるかを恐れているようだった。
「家のお金を取られました。これからどうすればいいんですか。お金が、もう……」
しばらくすると、真紀は空中を見つめ、途切れ途切れにつぶやいた。
「剛志を殺さないで。お金なら、全部あげますから」
病室にいた者は、誰も何も言わなかった。
その反応は奇妙だった。
誰かに見せるための芝居のようでもあり、本当に何かの場面に閉じ込められているようでもあった。
警察は三瀬集落を改めて聞き込みした。
事件当夜、近所の住人は大きな叫び声を聞いていなかった。不審な車を見た者もいなかった。佐久間家の裏口と塀の周辺には、たしかに乗り越えたような痕跡があった。だが、それはあまりに整いすぎていて、警察に見せるために残されたようにも思えた。
捜査員たちは、直接の手がかりを得る代わりに、別の話をいくつも耳にした。
「あの二人、もう離婚していたはずですよ。今年の二月だったと思います」
「剛志には外に女がいました。集落の人間なら、みんな知っています」
「離婚したのに、まだ家に出入りしていたんです。毎日、当たり前みたいに。真紀さんは逃げ場がなかったんでしょう」
調べれば調べるほど、佐伯はこの事件が単なる強盗殺人ではないと感じた。
剛志と真紀の間には、長年の深い亀裂があった。
離婚後も、剛志は佐久間家を出ていなかった。二人は表向き、同じ家に暮らしているように見えたが、実際には互いを傷つけ合う関係に変わっていた。警察の調べでは、真紀は町役場の女性相談窓口にDVについて相談したことがあった。DV相談支援センターを勧められたこともあった。
しかし彼女は、最後までその道を進まなかった。
保護命令の申立てもしていない。
白川町を完全に離れることもできなかった。
佐伯には、その理由の一部は理解できた。地方の小さな町では、人間関係があまりにも狭い。家族、子ども、家、金、世間体。そのすべてが絡み合い、一人の人間を縛りつける。
だが、理解できることと、許されることは違う。
暴力で追い詰められたとしても、誰かに殺人をさせていい理由にはならない。
まして、剛志の死に方はあまりに凄惨だった。
犯人には、明確な殺意があった。
そして真紀だけが生き残った。
数日後、宮下美代が警察にある一言を伝えた。
美代は真紀を一番気にかけていた姉であり、ここ数年の佐久間家の事情をよく知っている一人だった。最初は美代も、強盗殺人だと思っていた。だが真紀が意識を取り戻したあと、ぽつりと口にした言葉があった。
「私はただ、誰かに脅かしてもらおうと思っただけ」
その一言で、事件は決定的に向きを変えた。
佐伯はすぐに、一人の名前に注目した。
宮下拓也。
拓也は美代の三番目の兄の息子で、真紀にとっては実の甥にあたる。事件当時、二十一歳。定職には就いておらず、普段から素行のよくない知人とも付き合いがあった。金に困っていて、真紀の家とも近い。
もし真紀が本当に誰かを使って剛志を脅そうとしたのなら、拓也は最も声をかけやすい相手だった。
警察は拓也を密かに調べ始めた。
やがて、もう一人の若い男が捜査線上に浮かんだ。
川瀬翔太。
翔太は拓也の友人で、拓也よりも体格がよかった。日雇いの仕事を転々としており、短気なところがあった。事件後まもなく、二人は一緒に白川町を離れ、北原市方面へ向かっていた。
遠回りのような動きだった。
しかし沿道の防犯カメラと交通系ICカードの記録が、少しずつ二人の足取りをつなげていった。
圧力は強まっていった。
事件翌日の深夜、真紀は自ら白川警察署へ出向いた。
取調室で、真紀の目はひどく腫れていた。
佐伯は向かいに座り、彼女が話し出すのを待った。
長い沈黙のあと、真紀はうつむいた。
「私が、あの子たちに頼みました」
取調室は、空調の音だけになった。
「拓也に人を探してもらって、剛志を殺してもらいました」
その瞬間、強盗殺人という偽装は完全に崩れた。
これは、妻による依頼殺人だった。




