【DV夫を殺した妻】村中が嘆願書を書いた雇われ殺人 1.三時のノック
2018年8月6日、午前三時。
白川町の三瀬集落は、湿った夜の闇に沈んでいた。
山道の両側には杉林が黒々と立ち並び、草むらから虫の声がかすかに聞こえては、遠くの沢音に呑まれていく。藤田千鶴は古い木造家屋の二階で、一人眠っていた。夫は前日から隣町の親戚の倉庫片づけを手伝いに出ており、家には千鶴しかいなかった。
玄関の外から、突然、激しい音がした。
何度も、何度も。
最後の力を振り絞るように、誰かが戸を叩いていた。
千鶴は布団の中で身を起こした。胸の奥がざわついた。三瀬集落は小さい。こんな時間に人が訪ねてくることなど、まずない。
上着を羽織って階段口まで行くと、外から途切れ途切れの声が聞こえた。
「助けて……剛志を、助けて……」
弱々しい声だった。
それでも千鶴にはわかった。
隣の佐久間家の真紀だった。
千鶴は階段を駆け下り、玄関の戸を開けた。
そこには、血まみれの女が倒れていた。
真紀の顔にも、髪にも、寝間着にも、暗い赤色の血がついていた。彼女は顔を少し上げ、千鶴の足首にすがろうとするように手を伸ばした。しかし指先が届く前に、体から力が抜けた。
千鶴はその場で凍りついた。
悲鳴すら出なかった。
数秒後、ようやく我に返り、近所の家へ助けを求めて走った。
やがて、集落の家々に一つ、また一つと明かりが灯った。
誰かが110番した。
誰かが真紀の姉、宮下美代に電話をかけた。
佐久間家の前には人が集まり始めたが、誰も中へ入ろうとはしなかった。
美代と夫が駆けつけたとき、真紀は数人の近所の者に囲まれていた。
顔は青白く、全身に血がついていた。口の中で、まだ剛志の名前をつぶやいていた。美代は妹のそばにしゃがみこみ、その手を握った。水の中から引き上げたように冷たかった。
最初、美代はまた真紀が剛志に殴られたのだと思った。
佐久間家では、そういうことが初めてではなかった。
美代の夫が先に隣の古い家へ入った。
数分後、彼は顔から血の気を失って出てきた。
「剛志は、もうだめだ」
その瞬間、玄関先に集まっていた親戚も近所の人間も、言葉を失った。
白川警察署の刑事課がすぐに現場へ到着し、県警捜査一課も加わった。
佐久間剛志は、一階の和室に倒れていた。畳と布団は血に染まり、部屋には息が詰まるほどの匂いが残っていた。剛志は眠っている最中に襲われたようで、はっきりした抵抗の痕跡はほとんど見当たらなかった。
和室の押し入れは開け放たれていた。
衣装ケース、引き出し、仏壇下の小さな収納も、乱暴に荒らされていた。
一見すると、強盗殺人に見えた。
剛志はここ数年、米の仲買や農機具の転売、肥料の仲介でそれなりの金を得ていた。近隣農家との間では、いまも現金でのやり取りが少なくなかった。三瀬集落の人間なら、佐久間家にまとまった現金が置かれていることを知っていた。
室内が荒らされていたこともあり、警察は当初、金銭目的の犯行と見て捜査を始めた。
だが、現場には不可解な点があった。
剛志は大柄で力も強い。もし起きている状態で襲われたなら、まともな抵抗もできないまま倒されるとは考えにくい。一方、真紀は全身に血を浴びていたが、命に関わる傷はなかった。背中と顔に傷はあったものの、重傷とは言えず、付着していた血の多くは返り血や接触によるものだった。
現場検証を担当した佐伯刑事は、二人の傷の差を見ながら、眉をひそめたままだった。
もし本当に金目当ての強盗なら、なぜ剛志にはここまで執拗に手を下し、唯一の目撃者である真紀を生かして逃がしたのか。
真紀は病院へ搬送されたあと、まもなく命に別状がないと確認された。
医師は、警察の事情聴取にも応じられる状態だと告げた。
病室の真紀は、まだ青ざめていた。枕に背を預け、視線は定まらず、夜の血の色から戻ってこられないように見えた。佐伯はベッド脇に座り、すぐには問い詰めなかった。まず、話せるかどうかだけを確認した。
真紀はゆっくりとうなずいた。
午前三時ごろ、自分と剛志が寝ていると、家の中へ覆面の男たちが入ってきたという。
「入ってきてすぐ、剛志のほうへ行ったんです。何も言わずに、いきなり……」
佐伯は真紀を見た。
「何人でしたか」
真紀の目が揺れた。
「三人……いえ、四人だったかもしれません。よく覚えていません」
「声は聞きましたか」
「聞きました。ここの言葉じゃありませんでした」
「どこの訛りですか」
真紀は長く黙った。
「地元の人じゃないと思います。県外の人みたいで……西のほうの訛りにも聞こえて……でも、本当に覚えていないんです」
佐伯はすぐには返事をしなかった。
真紀によれば、犯人たちは剛志を襲ったあと、現金の場所を聞き出そうとしたという。家には七十万円ほどの現金が残っており、それはすべて奪われた。だが佐伯が犯人の身長、体格、服装、逃走方向を尋ねると、真紀の答えはしだいに曖昧になっていった。
三人だったと言う。
四人だったとも言う。
刃物を持っていたと言ったかと思えば、よく見ていないとも言う。
恐怖そのものは、嘘には見えなかった。
けれど、あまりにも不自然な点が多すぎた。
佐伯が病室を出るころには、別の可能性が頭に浮かんでいた。
この現場は、誰かが強盗殺人に見せかけたものかもしれない。




