4.北砂支社の夜
大学三年のころ、理央は森川悠真と出会った。
悠真も地方出身だった。二人ともにぎやかな社交は苦手で、必要なもの以外に金を使うことに慣れていなかった。安い朝食を一緒に食べ、図書館で席を取り、卒業後の未来に互いの居場所を残していた。
その二年間は、理央の人生の中でも数少ない明るい時期だった。
しかし四年生の後半になると、現実は急に冷たくなった。
二人は説明会や採用イベントに何度も足を運んだ。履歴書も送り続けた。けれど返事は、まるで水の底へ沈んでいくように消えていった。周りの学生が次々と内定を得る中で、理央と悠真は条件を下げていくしかなかった。
最後に、悠真は郊外の専門学校で教師として働くことになった。
理央は、大手インフラ会社の地方支社に就職した。
その仕事は、外から見れば悪くなかった。
新卒にしては低くない年収だった。だが配属先の北砂町は、交通の便が悪く、気候も厳しい地方の町だった。若い社員はほとんど行きたがらず、長く残る人も少なかった。
理央は契約を結んだあと、一度だけ悠真と北砂町へ行った。
駅に降りた瞬間、彼は自分について来ないとわかった。
人の少ない駅前を風が吹き抜けていた。通り沿いの店は、ほとんどシャッターを下ろしていた。遠くには灰色の山と低い工場が見えた。理央は隣に立つ悠真を見ながら、心のどこかで、答えを先に受け取っていた。
卒業の季節は、別れの季節になった。
激しい喧嘩はなかった。
誰かが裏切ったわけでもなかった。
ただ二人とも、この先は互いの手を引いて進めないとわかっていた。
正式に働き始めると、理央は支社と下請けの営業所を行き来する日々に追われた。
契約書類、顧客情報、コンプライアンス関連の資料を処理し、先輩について地方企業へ出向くことも多かった。北砂町の冬は早く、夜に会社の寮へ戻るころ、窓の外で明るいのはコンビニの看板だけだった。
給料が振り込まれる日だけ、自分が前へ進んでいるような気がした。
理央は給料の多くを白倉町へ送った。
母には借金があった。父には介護用品が必要だった。悠太は専門学校へ進んだばかりで、学費も生活費もかかった。理央は、いつの間にか家の支柱になっていた。
けれど深夜、小さな社員寮の部屋で一人座っていると、息が詰まるほどの孤独が押し寄せた。
何度も悠真の連絡先を開いた。
そのたびに、打ちかけた文字を一つずつ消した。
まもなく、高森課長が理央に目をつけた。
最初は、何かにつけて一人で呼び出された。部署の会議では、いつも名前を出して褒められた。理央は不安を覚えたが、顔には出せなかった。外から来た新人で、周囲に本当に相談できる相手はいなかった。
ある出張の夜、高森は理央を商談後の酒席に連れて行った。
その夜、理央はかなり酒を飲まされた。客を見送ったあと、重い体を引きずるように自分の部屋へ戻ると、高森がドアの前で待っていた。
男は部屋に入ると、ドアを閉めた。
「秋山さん。こういう土地で一人で働くなら、頼れる相手は必要だよ」
理央はその夜を忘れていない。
それが間違っていることはわかっていた。
高森に家庭があることも知っていた。
けれど、疲れ切っていた。家の重さ、職場での孤立、見えない未来。そのすべてが雪のように降り積もっていた。抵抗していたのか、ただ一瞬だけ寄りかかる場所を探していたのか、自分でもわからなかった。
その後、理央は内勤に回された。
高森は昇進や昇給をほのめかしたが、何一つ実現しなかった。理央が距離を置こうとすると、高森は離れなかった。二人の関係は、少しずつ支社内に広がっていった。
ある日、高森の妻が会社に押しかけ、理央の髪をつかんで罵倒した。
一週間後、理央は退職した。
荷物を引いて、青峰市へ戻った。
すぐに白倉町へは帰らなかった。まず、悠真の勤める専門学校へ向かった。電話はしなかった。ただ校門の外に立って、彼が出てくるのを待った。
夕方、学生たちが帰り始めたころ、悠真が一人の女性教師と手をつないで正門から出てきた。
理央は声をかけなかった。
すべて終わったのだと知った。
青峰市に短く滞在したあと、理央は白倉町へ戻った。退職したことは、いずれ家族に知られる。北砂町の環境が悪かった、体調がもたなかった。そう言ってごまかしたが、母は納得しなかった。
「今どき、仕事を見つけるのがどれだけ大変かわかっているの? どうしてそんなに簡単に辞めたの」
父も、初めて失望した声で理央を責めた。
「うちはもう、これ以上余裕なんかない。お前までそんなことでは困る」
理央は薬の入った椀を持って、父の枕元に立っていた。これまで必死に支えてきたものが、その一言で音を立てて崩れる気がした。
「どこにいたって稼げる。私は、誰にも負けていない」
薬の椀が畳に落ちた。
苦い匂いが、すぐに広がった。
理央は夜の外へ飛び出した。
その後の二週間、家の空気は凍りついたようだった。理央と和枝は、退職のことで何度もぶつかった。理央は町に戻りたくなかった。青峰市からも北砂町からも逃げ帰ってきたのだと認めたくなかった。
そして、もう一度試験を受けることにした。
法科大学院を目指す。
もう一度、自分の人生をひっくり返す。
そう思った。




