4.小春が生まれたあと
2005年の終わり、美咲は女の子を産んだ。
拓馬は、その子に小春と名づけた。
だが鹿喰集落で、女の子の誕生は喜ばれなかった。登喜子は初めて赤ん坊の顔を見た瞬間、表情を曇らせた。森下家はあれだけ金を使ったのに、結局生まれたのは女の子か、と吐き捨てた。
集落の古い空気の中では、女の子は残すべき子どもではないと考える者もいた。
登喜子は、小春をよそへやろうとした。
拓馬が赤ん坊を抱き返した。
「俺は女の子が好きだ。小春でいい」
その日、美咲は初めて森下家で声を出して泣いた。
自分がまだ買われた女であることはわかっていた。自由ではないこともわかっていた。それでも小春を抱いたとき、自分とこの世界をつなぎ直す細い糸のようなものを感じた。
拓馬も小春をかわいがった。
仕事を終えて戻ると、長い時間、赤ん坊を抱いてあやした。ざらついた指が娘の頬に触れるとき、その動きだけはひどく優しかった。美咲はその姿を見ながら、自分でも認めたくない安堵を覚えた。
美咲は、拓馬を受け入れ始めていた。
自分がどうやってここへ来たのかを忘れたわけではない。
ただ、受け入れる以外の道が、もう見えなくなっていた。
小春が四か月になったころ、拓馬は鹿喰集落を離れることを決めた。
森下家は、栗園と椎茸小屋、山の手伝いだけで何とか暮らしていた。だが、その収入で三人を支えるのはもう難しかった。登喜子が美咲を買うために使った金で、家の蓄えはほとんど消えていた。
子どもが生まれると、ミルク、紙おむつ、冬の灯油代、山下までの交通費まで、すべてが重くのしかかった。
拓馬は知人の紹介で、県外の土木現場へ短期で入ることにした。
出発の日、彼は玄関先で長く立ち止まった。登喜子は家の中に座り、こちらを見ようとしなかった。
「俺がいない間、美咲にきつく当たるな」
登喜子は不機嫌そうに顔をそらし、低く返事をしただけだった。
拓馬は、小春がいるのだから母も少しは控えるだろうと思った。
しかし彼が鹿喰集落を出たあと、森下家の空気はすぐに変わった。
登喜子は、ようやく失った面子を取り戻す機会を得た。
家の仕事は、すべて美咲に押しつけられた。洗濯、食事の支度、椎茸小屋の片づけ、栗園の見回り、薪の運搬、水くみ。少しでも遅れれば、登喜子の怒鳴り声が落ちてきた。
集落の人間も、遠慮を失った。
大学まで出た町の女が、結局は山に買われて子どもを産んでいる。どれだけ顔がよくても、森下家の働き手に過ぎない。そんな言葉が、家の前や山道で美咲の耳に入った。
最初は怒りが湧いた。
やがて、何も感じなくなった。
唯一、心が動くのは、夕方になって小春を抱いて部屋へ戻る時間だった。
美咲は娘に物語を聞かせた。
高校の教科書にあった文章を記憶だけで語り、簡単な英単語も教えた。小春はまだ意味を理解できず、ただ美咲の髪に手を伸ばすだけだった。それでも、その時間だけは、自分がどこにいるのかを少しだけ忘れられた。
逃げる道がまったくなかったわけではない。
山を下りる道は一本だけだった。
しかし、美咲は行けなかった。
自分だけ逃げれば、登喜子はすぐ小春を手放すだろう。厄介な荷物を処分するように。
それより奥には、美咲自身の恐怖もあった。
海藤市へ帰ったとして、自分はどんな目で見られるのか。同じ年ごろの友人たちは大学を卒業し、これから人生を始めるころだった。自分は山と生活に削られ、もう若い女には見えなかった。
そして、もう一つ理由があった。
拓馬を待っていた。
それがどんな感情なのか、美咲には説明できなかった。
けれど、待っていた。




